「護念」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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【参考】中村元訳『ブッダのことば—スッタニパータ—』(岩波書店、一九八四)、袖山榮輝『全注全訳阿弥陀経事典』(鈴木出版、二〇〇八) | 【参考】中村元訳『ブッダのことば—スッタニパータ—』(岩波書店、一九八四)、袖山榮輝『全注全訳阿弥陀経事典』(鈴木出版、二〇〇八) |
2018年9月17日 (月) 01:17時点における最新版
ごねん/護念
誰かある者が幸せになり利益がもたらされ、とりわけ無事仏道を歩めるよう、その者から万難を排し、万事うまくいくよう心を寄せること。この行為については、例えば『大乗本生心地観経』三に「唯願わくは諸仏大慈尊、哀愍し護念すること一子の如くしたまえ」(正蔵三・三〇三下)と説かれるように、我が子を思い守り抜く親の心情と関連付けられることがある。これは『スッタニパータ』一四九偈における「あたかも、母が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし」との説示と軌を一にし、護念が慈しみの心と関連付けられていることが窺える。この語の用例は多数あり、浄土宗においては『阿弥陀経』六方段に繰り返される「一切諸仏所護念経」(聖典一・三一九~二〇/浄全一・五四~五)や、同じく「この諸もろの善男子・善女人、皆一切諸仏に共に護念せられて、皆、阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得」(同三二〇/同五五)といった用例が知られている。『阿弥陀経』における護念は、善導が『往生礼讃』に「若し仏を称して往生する者は常に六方恒河沙等の諸仏の護念せらるる」(浄全四・三七六上~下)と述べるように、諸仏から念仏往生する者へと向けられる。そして、その具体的な内容は、前出の経文に従う限りは、念仏者が完全なる悟りを目指して退転しないように、諸仏が念仏者の仏道を支えていくことにある。また浄土宗の法要を締めくくる偈文に送仏偈があるが、その一節に、「願わくは仏の慈心遥かに護念したまえ」(善導『法事讃』下、浄全四・三〇下)とある。これも念仏者による仏道の歩みを、諸仏が慈しみの眼差しを以て見守ることを期待するもので、やはり護念と慈しみとが関連付けられている。ちなみに『梵文阿弥陀経』において「一切諸仏所護念経」の「護念」に対応する梵語はⓈparigrahaに当たり、手厚く受け容れるなどの意があるとされる。なお阿含経などでは「念を護る」、すなわち心を整えるの意で用いられる。
【参考】中村元訳『ブッダのことば—スッタニパータ—』(岩波書店、一九八四)、袖山榮輝『全注全訳阿弥陀経事典』(鈴木出版、二〇〇八)
【参照項目】➡六方諸仏護念
【執筆者:袖山榮輝】