「円空」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年9月17日 (月) 00:25時点における最新版
えんくう/円空
一
一三世紀頃、生没年不明。来迎房。京都太秦の広隆寺に住した。現在その遺跡が近隣の西光寺として伝わる。元久元年(一二〇四)の『七箇条制誡』の一〇九番目の署名にはその名が見られるが、確定はできない。嘉禄三年(一二二七)比叡山の衆徒らが法然の大谷の廟堂を破却しようとした、いわゆる嘉禄の法難においては、蓮生(宇都宮頼綱)ら元武将たちが遺骸を嵯峨に運び、六月二八日夜半この広隆寺の円空のもとに安置し、翌安貞二年(一二二八)正月二五日荼毘のため粟生野の幸阿弥陀仏のもとへ移されるまで遺骸を守りとおしたという。
【資料】『四十八巻伝』四二(聖典六)
【参考】三田全信『成立史的法然上人諸伝の研究』(平楽寺書店、一九七六)
【執筆者:野村恒道】
二
寛永九年(一六三二)—元禄八年(一六九五)七月一五日。江戸時代前期の天台修験の僧。美濃の人。山の洞窟に住み窟上人ともいわれた。尾張の高田寺で修学したともされるが、近江の園城寺の流れをくむ大峯山で天台系の修験道の修行をする。一二万体の造仏を発願し、寛文五年(一六六五)頃より北海道、東北、関東諸国を遍歴し、特に岐阜や愛知を中心に各地にたくさんの仏像を残す。円空の彫った仏像は、円空仏と称され、鉈の一刀彫りによる素朴な木像が多く、現在五千体以上が確認されている。円空が復興したといわれる岐阜県関市の弥勒寺には、墓や入定塚が造られている。
【資料】『率土か浜つたひ』(『菅江真澄全集』一、未来社、一九七一)、『福山秘府』(『新撰北海道史』)
【参考】五来重『五来重著作集』一〇(法蔵館、二〇〇九)、橋本平八『円空』
【執筆者:野村恒道】