操作

「泉谷瓦礫集」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
(1版 をインポートしました)
 
(他の1人の利用者による、間の1版が非表示)
1行目: 1行目:
 
=せんこくがれきしゅう/泉谷瓦礫集=
 
=せんこくがれきしゅう/泉谷瓦礫集=
三巻。横浜市小机[[泉谷寺]]二〇世極誉[[恵頓]](—一七八五)著。天明四年(一七八四)跋刊。内容は銘文・伝記・[[表白]]・[[宣疏]]・紀行文等多岐にわたっているが、頼まれて代作した文章も全七三項中一七項まで存在することは[[恵頓]]の文筆が勝れていた証左といえよう。また、[[表白]]等は[[仏名会]]・[[施餓鬼会]]・[[盂蘭盆会]]・落慶[[遷座式]]・[[不断念仏]][[開白]]式にまで及んでおり、中でも[[施餓鬼会]][[表白]]・同[[宣疏]]は現在『[[法要集]]』に取り入れられている。本書中にある「[[泉谷寺]]再建募縁疏」「[[泉谷寺]][[大殿]]再成遷座[[供養]]啓白」「同[[回願]][[宣疏]]」によれば、[[恵頓]]は[[泉谷寺]][[住職]]を[[弟子]]恵海に譲った直後の安永六年(一七七七)七月三日、回録の災いに逢いかろうじて[[本尊]]・御朱印状・徳川家の[[位牌]]を持ち出したが、諸堂宇および資具・書籍も一介も留めず瞬時にして烏有に帰した。[[恵頓]]も恵海も共に蒲柳の質であったが日夜衣帯も解かず復興に努めた。これに応えて[[末寺]][[子院]]ならびに[[檀越]]一同一〇万人が四年間毎日一人一銭の寄進をし、天明二年(一七八二)春遂に落慶することができたと記されている。
+
三巻。横浜市小机[[泉谷寺]]二〇世極誉[[恵頓]](—一七八五)著。天明四年(一七八四)跋刊。内容は銘文・伝記・[[表白]]・[[宣疏]]・紀行文等多岐にわたっているが、頼まれて代作した文章も全七三項中一七項まで存在することは[[恵頓]]の文筆が勝れていた証左といえよう。また、[[表白]]等は[[仏名会]]・[[施餓鬼会]]・[[盂蘭盆会]]・落慶[[遷座式]]・[[不断念仏]][[開白]]式にまで及んでおり、中でも[[施餓鬼会]][[表白]]・同[[宣疏]]は現在『[[法要集]]』に取り入れられている。本書中にある「[[泉谷寺]]再建募縁疏」「[[泉谷寺]][[大殿]]再成遷座[[供養]]啓白」「同[[回願]][[宣疏]]」によれば、[[恵頓]]は[[泉谷寺]][[住職]]を[[弟子]]恵海に譲った直後の安永六年(一七七七)七月三日、回禄の災いに逢いかろうじて[[本尊]]・御朱印状・徳川家の[[位牌]]を持ち出したが、諸堂宇および資具・書籍も一介も留めず瞬時にして烏有に帰した。[[恵頓]]も恵海も共に蒲柳の質であったが日夜衣帯も解かず復興に努めた。これに応えて[[末寺]][[子院]]ならびに[[檀越]]一同一〇万人が四年間毎日一人一銭の寄進をし、天明二年(一七八二)春遂に落慶することができたと記されている。
 
----
 
----
 
【参照項目】➡[[泉谷寺]]
 
【参照項目】➡[[泉谷寺]]
 
----
 
----
 
【執筆者:久米達雄】
 
【執筆者:久米達雄】

2018年8月22日 (水) 06:39時点における最新版

せんこくがれきしゅう/泉谷瓦礫集

三巻。横浜市小机泉谷寺二〇世極誉恵頓(—一七八五)著。天明四年(一七八四)跋刊。内容は銘文・伝記・表白宣疏・紀行文等多岐にわたっているが、頼まれて代作した文章も全七三項中一七項まで存在することは恵頓の文筆が勝れていた証左といえよう。また、表白等は仏名会施餓鬼会盂蘭盆会・落慶遷座式不断念仏開白式にまで及んでおり、中でも施餓鬼会表白・同宣疏は現在『法要集』に取り入れられている。本書中にある「泉谷寺再建募縁疏」「泉谷寺大殿再成遷座供養啓白」「同回願宣疏」によれば、恵頓泉谷寺住職弟子恵海に譲った直後の安永六年(一七七七)七月三日、回禄の災いに逢いかろうじて本尊・御朱印状・徳川家の位牌を持ち出したが、諸堂宇および資具・書籍も一介も留めず瞬時にして烏有に帰した。恵頓も恵海も共に蒲柳の質であったが日夜衣帯も解かず復興に努めた。これに応えて末寺子院ならびに檀越一同一〇万人が四年間毎日一人一銭の寄進をし、天明二年(一七八二)春遂に落慶することができたと記されている。


【参照項目】➡泉谷寺


【執筆者:久米達雄】