「臨終断惑」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
Seishimaru (トーク | 投稿記録) 細 (1版 をインポートしました) |
|
(相違点なし)
|
2018年3月30日 (金) 06:35時点における最新版
りんじゅうだんわく/臨終断惑
臨終のときに、迷いに基づく行為を断ち切ること。妙瑞『徹選択集私志記』上(浄全八・一一五)において隆寛の所説として挙げられる。隆寛が臨終断惑を説くのは、天台の所説に基づいて、報土に往生するためには無明を断じて無生忍を得なければならないと考えたからであり、滅罪論と業成論の立場からこの説を立てている。滅罪論からすると、臨終の一念に弥陀の願力によって無量劫の罪を滅し、来迎を得て無生忍を証することができるとして臨終滅罪を強調する。業成論からすると、臨終において業事成弁すると捉えるから臨終を重視し、臨終の一念は一〇〇年の業にも勝ると主張し、臨終の一念に往生の業が成就するとして臨終業成・臨終断証を強調する。このように臨終の一念にいたって平生積み重なった多念の功が成就して業成見仏を得る。この見仏によって滅罪し、無明を自然に断惑し往生することができるというのである。この断惑は凡夫の自力によるものではなく、あくまで弥陀の願力によるものである。
【参考】平井正戒『隆寛律師の浄土教附遺文集』(金沢文庫浄土宗典研究会、一九四一)
【参照項目】➡業成
【執筆者:永田真隆】