「藤原弘道」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ふじわらこうどう/藤原弘道
明治三六年(一九〇三)六月三〇日—昭和五四年(一九七九)五月二八日。大蓮社法誉乗阿智海。金戒光明寺七一世。東山学園発展の功労者。東山学人の称を好んだ。宗門功労者。現在の京都市伏見区北浜町に父藤原誓弘、母ことの長男として生まれた。幼名は弘一。大正二年(一九一三)三月誓弘について得度し、弘道と改めた。東山中学、佛教専門学校を経て昭和五年(一九三〇)大谷大学を卒業。のち立命館商業学校、東山中学校などに勤め、同一七年一〇月佛教専門学校教授となり、同二四年四月佛教大学教授に就任した。その翌年四月、東山学園理事長、東山高等学校長となり、校運の挽回に挺身した。抜群の経営力による発展ぶりは、昭和三〇年代はじめから約十余年の間が顕著であった。また京都産業大学の創設に協力し、同四〇年同大学の理事となり、また同四三年九月吉水学園高等学校長を兼任した。長年にわたる教育功労で藍綬褒章(同四一年)、宗門教育功労者表彰(同四二年)、勲三等瑞宝章(同四八年)などを受けた。養鸕徹定の顕彰のため同四八年八月『古経捜索録』、同五三年三月『古経堂詩文鈔』を出版した。学者との交友も広く『藤原弘道先生古稀記念 史学仏教学論集』二巻が献呈された(同四八年一一月)。同五三年三月東山学園長を辞任。同年五月一三日大本山金戒光明寺七一世法主に推戴され、同年一一月六日晋山したが、翌年遷化した。
【執筆者:伊藤唯眞】