「日想観」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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にっそうかん/日想観
太陽の没するのを観想すること。日観・日輪観ともいう。『観経』定善十三観中の第一観で、経には「まさに心を専らにして、念を一処に繫けて、西方を想うべし。云何が想を作さん。およそ想を作すとは、一切衆生、生盲にあらざるより、目ある徒がら皆日の没するを見よ。まさに想念を起して、正坐して西に向かい、諦かに日を観ずべし。心をして堅住し、想を専らにして移さざらしめて、日の没せんと欲して、状、懸鼓のごとくなるを見よ。すでに日を見おわりなば、目を閉じ目を開かんに、みな明了ならしめよ。これを日想とす。名づけて初観という」(聖典一・二九二~三/浄全一・四〇)とある。善導は『観経疏』定善義(浄全二・三五上~下)において日観をさせるのは、①衆生をして境を識りて心を住せしめんと欲す。②衆生をして自の業障に軽重あることを識らしめんと欲す。③衆生をして弥陀の依正二報の種種の荘厳光明等の相の内外照曜して、この日に超過すること百千万倍するを識知せしめんと欲す、という三種の意味に分けて説明している。
【執筆者:竹内正俊】