「清光寺」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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せいこうじ/清光寺
一
東京都台東区西浅草。田中山徳生院。東京教区№二八五。増上寺末。文禄三年(一五九四)信誉了公が駿河国田中領に起立。当初は乗願寺といった。寛文五年(一六六五)頓誉によって清光寺と改めて、江戸馬喰町に移転した。このときの開基は水戸藩主徳川光圀である。そのため徳川光圀の子女の菩提寺となっている。さらに七世実誉快超のときに現在地に移り浅草開山となった。特に水戸家の出身である一四世憲誉文潮の代に堂舎が整備された。江戸時代後期には、寺格は単独で将軍に御礼ができる独礼寺院であり、触頭寺院であった。当時の末寺に亀戸浄心寺がある。
【執筆者:岡本圭示】
二
千葉県印旛郡酒々井町上本佐倉。亀沢山孤峰院。千葉教区№七三。月峰の開山。知恩院末。触頭寺院であった。天文年間(一五三二─一五五五)、当寺二世峰誉無算は三河岡崎城主・松平広忠の庇護を受け、死去火葬の際には徳川家康より分骨を拝請した。天正一九年(一五九一)一一月、家康が上総国東金へ鷹狩のおり、当寺に一宿して霊廟の印に厚朴を栽植し、あわせて朱印五〇石を供養料として寄進した。明暦年間(一六五五─一六五八)の火災によって寺宝・記録などを焼失しており、正確な開創年代は不明であるが、弘治元年(一五五五)といわれる。現在、所蔵什物である銅造阿弥陀如来像および両脇侍立像(善光寺式阿弥陀)は千葉県有形文化財に指定されている。
【資料】『蓮門精舎旧詞』二一(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)
【参考】『千葉県浄土宗寺院誌』(千葉県浄土宗寺院誌刊行委員会、一九八二)
【執筆者:杉山裕俊】
三
三重県松阪市中町。三縁山信阿院。伊勢教区№九九。天平二一年(七四九)行基が当寺の前身である神光寺を開山したと伝わる。一時荒廃したが、大永三年(一五二三)察道が浄土宗に改宗、無量覚院清光寺とする。蒲生氏の菩提寺であった。現在地に移ったのは、元禄四年(一六九一)大誉挙柳によるもので、院号も信阿院と改められた。明治三三年(一九〇〇)、同三八年火災に遭い、同四四年に再興。本尊の阿弥陀如来坐像は国重要文化財である。
【資料】『蓮門精舎旧詞』一四(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)
【参考】全日本仏教会寺院名鑑刊行会編『全国寺院名鑑』(史学センター、一九八三)
【執筆者:横井大覚】