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穏冏

提供: 新纂浄土宗大辞典

おんげい/穏冏

享保五年(一七二〇)—寛政元年(一七八九)七月二七日。在蓮社現誉唯阿。あざなは性明。忍澂の遺風を踏襲し多くの寺院捨世地として開基・中興した清貧の捨世僧。三河国広瀬(愛知県豊田市)に生まれ、九歳で同国遍照院の暢公のもとで出家。一八歳で江戸へ出て増上寺山内の忍海の学舎で学び、四四世覚瑩より宗戒両脈稟承ほんじょうする。その後、暢公の移った尾張大森寺に赴き寺政を助けるが、師の寂後再び江戸に戻り、義海より教えを受けて諸山を遊学した。その勉学の姿勢と浄業に対する志の篤さは絶賛を受けている。さらに諦忍律師より菩薩大戒を受け、宝暦年間(一七五一—一七六四)に三河縁心寺および遍照寺の住持となり、また忍澂が中興した貞照院にも董じ、鹿ししたに法然院規矩きくを導入する。寛政元年に片山氏の招きにより道智寺に移り、三河貞照院の寺規を移し、後を弟子堪道に託してひたすら念仏に明け暮れる。その年七月、世寿七〇にして示寂。出家者が財産を残すことを恥と考え、清らかにして慎ましく、かつ欲の少ないことを旨として念仏にはげむ姿は多くの人々の傾慕を集め、この地における篤信の風紀の礎となった。


【資料】『略伝集』(浄全一八)


【執筆者:渋谷康悦】