異学・異見
提供: 新纂浄土宗大辞典
いがく・いけん/異学・異見
修学・見解を異にすること、またそういった宗派に対する呼称。「異学」とは仏教以外の教え、あるいは仏教内の異なった学派を指し、「異見」とは異なった見解のことをいう。善導は『観経疏』散善義において、浄土に往生しようとする念仏の行者に対し、「一切の別解、別行、異学、異見、異執に退失傾動せられざるなり」(聖典二・二九一/浄全二・五七上)、「この心深く信ずること、なおし金剛のごとくにして、一切の異見、異学、別解、別行の人等に動乱破壊せられず」(聖典二・二九五/浄全二・五九上)などと述べ、異なった修学見解の人師からどのような誘導・疑難等を受けようとも揺り動かされない堅固な信仰の確立、すなわち決定深信を説いている。これについて法然は、『選択集』八での深心ならびに回向発願心の私釈段において「この中に、一切の別解・別行・異学・異見等と言うは、これ聖道門の解行学見を指す。その余はすなわちこれ浄土門の意なり…回向発願心の義、別の釈を佚つべからず」(聖典三・一五三/浄全八・四六)として「一切の別解・別行・異学・異見」とは聖道門の解行であると解釈している。これに対して明恵は『摧邪輪』下において、別解別行異学異見の人師を聖道門の解行とすることは認めるが、「別解別行」には正見と悪見の別があり、「別解別行即悪見に非ず」という立場から、法然の解釈は群賊に喩えられる異執・邪雑・退失傾動・破壊動乱等の悪見人と正見である聖道門の人師とを同一視したもの(浄全八・七五四下〜五上/『鎌倉旧仏教』三七六上)と批判している。
【参照項目】➡別解・別行
【執筆者:米澤実江子】