無余涅槃・有余涅槃
提供: 新纂浄土宗大辞典
むよねはん・うよねはん/無余涅槃・有余涅槃
無余涅槃は、すべての煩悩を滅し尽し、肉体も滅して心身の束縛を完全に離れたさとりの状態。Ⓢnirupadhiśeṣa-nirvāṇaⓅanupādisesa-nibbānaの訳。無余、無余依、無余依涅槃、また般涅槃ともいう。無余とは残されたものが何も存在しないことを意味する。これに対し、すべての煩悩を滅していても、未だ生存の根源である肉体が残っていて、五官によって快不快などを感じる状態を有余涅槃(Ⓢsa-upadhiśeṣa-nirvāṇaⓅsa-upādisesa-nibbāna、有余、有余依、有余依涅槃)という。元来、涅槃は釈尊が成道時に達したことから、生存中に得られるものとされていた。しかし、輪廻・業からの解脱を実現するために涅槃と死が結びつき、また涅槃に達した解脱者の死後のあり方に対する関心から、まず無余涅槃が説かれ(『長阿含経』二、正蔵一・一六上)、後に生前の涅槃を表す用語として有余涅槃が説かれ、二種の涅槃説が成立したと考えられる(『増一阿含』七、正蔵二・五七九上)。『婆沙論』三二(正蔵二七・一六七中~八下)では、この二種の涅槃に種々の見解があることを示しつつ、結論として寿命があるか否かが両者の区別であるとするが、無余涅槃が最高の目標とされた。これに対し大乗仏教では「菩薩は無余涅槃に住してはならない(趣意)」(『小品般若経』一、正蔵八・五四〇中)とされたり、「方便で涅槃を現じたが、常に住して説法する(趣意)」(『法華経』五、正蔵九・四三中)とされ、やがて無住処涅槃(生死にも涅槃にも住しない涅槃)が主張された(真諦訳『摂大乗論釈』一三、正蔵三一・二四七上中)。無余涅槃は灰身滅智(身体を灰にし、心を滅すること)とも呼ばれ、死によってすべてが無に帰するという消極的な見解と考えられるようになった。
【参考】藤田宏達「涅槃」(岩波講座『東洋思想』九、一九八八)
【執筆者:榎本正明】