浄土宗学制
提供: 新纂浄土宗大辞典
じょうどしゅうがくせい/浄土宗学制
浄土宗の宗侶を養成する学校教育制度。江戸時代、浄土宗は関東に十八檀林を有していたが、明治政府の学校制度に刺激されて、興学育英の新しい機関・制度の確立が望まれた。増上寺では明治元年(一八六八)興学所(のち勧学所に改め、勧学院とも称する)が設置され、ついで貫綜学院が開かれ、同六年両者が合併。知恩院では慶応四年(一八六八)三月に名誉学天が出した勧学の論達に基づいて山内源光院に講筵が開かれ、明治三年(一八七〇)発展して勧学場、翌年一月入信院に移って勧学所(のち勧学本場)となった。同五年、政府は学制を発布、浄土宗大教院は同九年三月、二〇章よりなる浄土宗学制を定め、東西両京に宗学校本校、各府県下に支校を設けることとした。西部ではその前年八月に開設された勧学本場が西部本校となり、同一〇年三月旧華頂宮邸に移転。東部では同一二年六月本校講堂が落成、開校した。のち西部本校は同一七年七月、東部本校は同年一二月それぞれ西部大学林、東部大学林と改称。大学林では学課を正則変則とし、正則には初等・中等(各三級)・高等(二級)の三課をおき、本科では宗学・戒学・慧学・梵学・英学、予科では算術・訳書・漢籍・文章詩歌などを教授した。同二〇年浄土宗の東西分立が解消、教育制度に根本的改革を加えるため同年七月に浄土宗学則二六箇条が制定された。一宗の学校は宗学校と普通学校とし、宗学校を高等科・尋常科に分け、高等科は宗学本校、尋常科は宗学支校と称し、本校は一宗共立、支校は各地方の共立、普通学校は一般人の入学を許し、各種の普通学科を教授するところとした。この新制度により東西両大学林を発展的に廃止し、同年九月芝天光院に浄土宗学本校が開設され、西部大学林の学舎に浄土宗学京都支校(大阪・京都・滋賀・奈良・兵庫・和歌山・福井大教会の共立)が置かれた。本校ははじめ六学年制、のち高等予科七ヶ年、本科二ヶ年と改められ、高等予科では内典(宗余乗)と普通学(哲学・国語・漢文・英語・羅甸・数学・地理・歴史・博物・理財学など)を学び、高等本科は俱舎・唯識・華厳・天台の四部に分かれておのおの専門分野を攻究した。宗学本校は同二四年一月小石川表町に移転。その前年に高等予科を高等正科、高等本科を高等専門科と改称し、教育課程を更正していた。宗学支校は当時の七大教区制に基づき、第一は東京に東京支校、第二は京都に京都支校、第三は名古屋に愛知支校、第四は長野に長野支校、第五は盛岡に東北支校、第七は箱崎に鎮西支校が設立された。のち第七の山口大教会が独立して山口支校を設け、未開設の第六教区の教会と合併、また第二教区の大阪大教会が分立して大阪支校を設け、かくて全国八ヶ所に宗学支校ができた。
本宗教育に関する重要事項は明治二三年(一八九〇)宗学本校内に設置された教育会に諮詢されていたが、同三一年四月の浄土宗宗制更正により、新たに宗務所内に設けられた教学院会議の審議を必要とすることになり、同年八月教学院の議を経て浄土宗学則が更正された。この新学則で、宗学本校は浄土宗専門学院(旧高等専門科)と浄土宗高等学院(旧高等正科)に分かれ、宗学支校は教校と改称された。専門学院は京都に移り、同年九月知恩寺に仮設され、同三四年九月鹿ヶ谷に新校舎が落成し移転。この間、明治三二年(一八九九)五月私立学校令により京都府知事より設立の認可を得、こえて同三六年専門学校等位の認定を受け、在学生に徴兵猶予の特典が与えられた。高等学院はすでに明治三三年(一九〇〇)一一月専門学校等位認定を得、同三五年五月校内に東京文学院を設け、専門学校令が公布されるやこれに準拠すべく請願し、翌年一〇月その認可を得、専門学院より優位となった。そこで浄土宗は専門学校令準拠を機に、高等教育を担う学校を革新するため、高等学院に専門学院と芝の伝道講習院とを合併し、明治三七年(一九〇四)五月に浄土宗教大学院と改称、同年一〇月さらに浄土宗大学と改め、旧専門学院はその分校となった。同四〇年四月学制の改正があり、浄土宗大学は宗教大学と改称。東京本校、京都分校ともに研究科、本科が置かれた(京都分校には専修部、別科も)ので、京都へ遊学するものがなくなり、分校では独立の議が生じた。同四四年七月またも学則が更正され、教校を廃して文部省規定による中学校とし、宗学校を宗教大学、高等学院、尼衆学校の三種とした。すでに第八教校は鎮西中学校、第一教校は芝中学校、第四教校が東海中学校とあいついで中学組織に改められていたが、翌年第五教校が東山中学校、第六・七連合教校が上宮中学校となった。時勢にともない宗侶養成方針が専門学校程度を標準とするに及び、教校は一般子弟養成の純粋なる中学校となり、のち昭和二三年(一九四八)の学制政策でおのおの高等学校となった。宗教大学分校は明治四五年(一九一二)四月から高等学院となり、翌大正二年(一九一三)四月佛教専門学校と改称、昭和二四年(一九四九)佛教大学に昇格した。宗教大学は大正一五年(一九二六)四月より浄土宗、天台宗、真言宗豊山派連合設立の大正大学となった。
【参考】『佛教大学史』(佛教大学、一九七二)、『大正大学五十年略史』(大正大学五十年史編纂委員会、一九七六)、『知恩院史』(知恩院、一九三七)
【執筆者:宇高良哲】