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提供: 新纂浄土宗大辞典

あい/愛

人間の極めて根元的な領域において体験される情動の一つ。ギリシャ思想ではエロースとフィリアに代表される。エロースとは本来感覚的な性愛を意味するが、それのみでなく真実在であるイデアを捉えようとする知的な憧憬しょうけいを意味し、真善美に到達しようとする上昇的情動である。フィリアは友情・友愛を意味し、アリストテレスはこれを人間相互の関係として説いている。キリスト教では、教義の中心概念として愛(アガペー)が重要視されるが、それは神の愛と隣人愛として説かれる。エロースが現実世界から真実理想世界への上昇的性質のものであるのに対し、アガペーは神から人間へ下される下降的愛という性質のものである。仏教では①愛(自己愛)ⓈpriyaⓅpiya、②親愛ⓈpremanⓅpema、③欲楽(恋愛)Ⓢrati、④愛欲(性的愛)Ⓢkāma、⑤渇愛ⓈtṛṣṇāⓅtaṇhāなどがあげられる。この五つの形態は、人間の愛が自己愛から性愛、そして自己愛の窮まった形である渇愛へと深まる過程を示す。この渇愛が人間の愛の本体であるとともに人間の苦悩の源泉であると考えられている。②のpremanには汚れた愛(貪)と汚れのない愛(信)(『大毘婆沙論』二九)あるいは、欲愛(貪欲)と法愛(慈悲)(『大智度論』七二)の二種類があるとされる。また、信愛と訳されるⓈbhaktiは浄土経典には見られないものの、一人称および二人称の相互間に生ずる宗教的な愛の感情をその前提とするもので、報身阿弥陀仏措定そていする法然浄土教においては無視できない概念である。善導観経疏』では二種の愛の用例が見られる。まず、「我が愛する所は、すなわちこれ我が有縁の行なり。すなわち汝が求むる所に非ず。汝が愛する所は、すなわちこれ汝が有縁の行なり。また我が求むる所に非ず」(聖典二・二九六/浄全二・五九下)、とあるのがpreman(汚れのない愛、信、慈悲)で、「また水波常に道を湿すとは、すなわち愛心常に起って、能く善心を染汚ぜんまするに喩う」(聖典二・二九八~九/浄全二・六〇下)とあるのが渇愛である(二河白道喩)。これら二つの用例は『選択集』八でも引用されている。


【参照項目】➡三種の愛心渇愛


【執筆者:藤本淨彦】