実存
提供: 新纂浄土宗大辞典
じつぞん/実存
現実存在の意。英語のexistence、ドイツ語のExistenz。語源的には、ラテン語のex-sistere(外に立つこと)を意味し、もともとヨーロッパ中世のカトリック神学では、本質(essentia)に対して用いられた。人間の問題としての実存という視点は、実存主義の父ともいわれるS・キェルケゴール(一八一三—一八五五)を創始とする。人間はふつう日常性のなかに埋没して、本来的な自己を見失っているが、自らの有限性や死などに直面して否応なしに自己自身の現実の姿、すなわち自己の真実の姿を自覚させられ、真剣に厳粛に本来的な自己の生き方を追求するように決断を迫られる、この生き方が実存と表現される。したがって実存とは、現実存在の自覚的決断による真実存在の意味であることになる。実存を規定するにあたって、神とのかかわりを持つ有神論的実存主義と神の存在を認めない無神論的実存主義の二つの大きな傾向があるが、「実存が本質に先立つ」(サルトル)として人間の主体性を強調するゆえに「主体性が真理である」(キェルケゴール)という点で、すべての実存主義は一致している。これらはいずれも人間が現実に存在するということを鋭く捉え、とくに二〇世紀の高度に科学技術の進歩した時代における人間性喪失・人間疎外に関する批判や反省の態度である。仏教は、人間存在を生・老・病・死する有限存在として凝視し、苦からの解脱(超越)を説き、本来的な真実の生き方(悟り)を教え諭す点において、まさしく実存的実践思想であるといえる。しかし、西欧思想における実存主義が説く主体性は、デカルトがいうように「我思う、ゆえに我あり」という自我の自覚という性格を有しているが、それに対して仏教では、「無我すなわち一切は縁起によって生じる」という「空」の思想が特徴である。この点において、西欧の実存主義と仏教が特徴とする実存的思想とには大きな相違があることを指摘しなければならない。浄土教においても、人間の捉え方の特徴に実存的思想を指摘することができる。すなわち浄土教は、生死の問題の解決を主題とし、人間の現実存在を深く捉える人間観を提示する。いわば、死への存在として人間を捉え、その人間の存在を自覚的に罪悪生死の凡夫とするという人間把握は、まさに否応なしに在る自己自身の現実の姿であるゆえに、極めて具体的な実存思想が見出されるといえる。善導が、『観経』説示の三心の深心を二種深信(信機・信法)として解釈する場合、この信機・信法の生起は、キェルケゴールが強調する宗教的実存の成り立ちであり、阿弥陀仏の本願の救いの約束という見方をすれば、ハイデッガーが言うように、人間が真実の在り方へと決断するのは存在の歴史としてすでにあらかじめ定められているという考え方に比すことができよう。法然の場合においても、善導の深心解釈(二種深信)の思考が基軸となっており、その意味で極めて強く実存的思想の性格が指摘される。しかしながら、実存の問題が具体的な宗教の信仰へと取り組まれていくのでなければ、浄土教における問題とも重なり合うが、実存主義はどこまでも思想のレベルにとどまる。具体的に言えば、信機・信法の生起は南無阿弥陀仏の称名念仏の実践において語られるのである。その限りにおいて、実存という課題のもとで浄土教の問題を考察すべき意義と意味は多大であるということができる。
【参考】藤本淨彦『実存的宗教論の研究』(平楽寺書店、一九八六)
【参照項目】➡信機・信法
【執筆者:藤本淨彦】