浄土宗における善導に対する尊称で、浄土開宗の原点となったその教えを象徴する語。法然は『選択集』一において「道綽・善導の一家」(聖典三・一〇四/昭法全三一三)という。一家は法然以降使われているが、聖冏の『教相十八通』では大師、一家、光明大師と同様の意味で「一家大師此の文を釈して」(浄全一二・七五五上)というように多く使用されるようになる。聖聡は『伝心抄』に「一家大師は四修を標してただ三修を挙ぐ」(聖典五・二七六)と示している。
【参照項目】➡善導
【執筆者:服部淳一】