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「清凉寺」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:27時点における最新版

せいりょうじ/清凉寺

京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町。五台山。異称「しょうりょうじ」。通称は嵯峨釈迦堂。京都教区№四八九。法然が二四歳のとき、初めて比叡山を下り、七日間の参籠祈請をした遺跡。新撰元祖大師二十五霊場第一七番。永延元年(九八七)優塡うてん王造釈迦如来像模刻と北宋勅版大蔵経などを入宋して請来した東大寺奝然ちょうねんは、愛宕山を中国五台山に模し、大清凉寺の建立をはかったが果たせず、弟子の盛算が師の遺志を継ぎ、源融みなもとのとおるの別荘寺院である棲霞寺せいかじ内に、請来した像を安置した釈迦堂を建て、五台山清凉寺と号することを勅許されたのが当寺の創始である。釈迦像生身しょうしん如来三国伝来の霊像と信仰され、模刻像(清凉寺式釈迦像)は全国的に流布した。また、平安末から鎌倉初期には、棲霞寺と清凉寺の地位が入れ替わり、浄土信仰の浸透とともに嵯峨の聖たちの活動の拠点ともなる。鎌倉・室町期に幾度かの火災に遭うが、堂舎は浄土系の念仏者の勧化により再建され、融通念仏大念仏)の道場となる。江戸初期に真言宗子院と「本願」と称する浄土宗系の僧が対立し、元禄一六年(一七〇三)桂昌院寄進の現本堂の再建の後、大覚寺門跡の寺務となるが、寺院運営の実権は「本願」が握った。明治維新の際、真言宗子院大覚寺内の覚勝院に合併され、以後浄土宗単独の寺院となる。国宝の本尊釈迦像(胎内納入品も含む)や絹本著色十六羅漢像阿弥陀三尊(棲霞寺本尊)、国重要文化財の法然証空消息、熊谷直実誓願状、清凉寺縁起融通念仏縁起などがある。三月一五日の涅槃会の御松明、四月・一〇月の大念仏狂言の行事は著名。


【資料】『四十八巻伝』四、『清凉寺縁起』(仏全一一七)、水野恭一郎・中井真孝編著『京都浄土宗寺院文書』(同朋舎出版、一九八〇)


【参考】『浄土宗史・美術篇』(『塚本善隆著作集』七、大東出版社、一九七五)


【参照項目】➡清凉寺式釈迦像嵯峨大念仏


【執筆者:山本博子】