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深心

提供: 新纂浄土宗大辞典

2018年3月30日 (金) 06:25時点におけるSeishimaru (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)

じんしん/深心

観経』説示の三心の一つで、本願を深く信じる心のこと。その上品上生段に「もし衆生あって、かの国に生ぜんと願ぜば、三種の心を発すべし。すなわち往生す。何等をか三とす。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり」(聖典一・三〇五~六/浄全一・四六)と説く。善導はこの経文について『観経疏散善義で、「〈深心〉と言うは、すなわちこれ深く信ずる心なり」(聖典二・二八九/浄全二・五六)と定義した上で詳しく論じる。

まず「また二種有り」として「一には決定して、深く信ず。自身は現にこれ罪悪生死の凡夫曠劫こうごうより已来このかた、常に没し常に流転して、出離の縁あること無しと。二には決定して深く信ず。かの阿弥陀仏四十八願をもって、衆生摂受したまう。疑いなくうらおもい無く、かの願力に乗じて、定んで往生を得と。また決定して深く信ず。釈迦仏この『観経』の三福九品、定散二善を説いて、彼の仏の依正二報えしょうにほうを証讃して、人をして欣慕ごんぼせしめたまうことを。また決定して深く信ず。『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏一切の凡夫決定して生ずることを得ることを証誠したまうことを」(聖典二・二八九/浄全二・五六)と明言する。これは、信機信法または二種深信と呼称される。すなわち、自身の罪悪生死・常没常流転出離の縁なきこと(機根)をよく認識することが信機であり、そうした自分であっても阿弥陀仏四十八願願力に乗じて摂受され往生を得ること(『無量寿経』説示)、釈尊三福九品および定散二善の説を説き、浄土阿弥陀仏を讃えて、衆生極楽浄土を欣慕させたこと(『観経』説示)、十方恒沙の諸仏が一切の凡夫を証勧し往生を得ることができること(『阿弥陀経』説示)を信じることが信法である。そして善導は、「一切の行者等」に対して深く信ずるとは、仏教・仏意・仏願に随順することであり、「この経に依って、深く信じ行ずる者は、必ず衆生を誤らず」(聖典二・二九〇/浄全二・五六)と述べる。

さらに善導は「また深心は深信なりとは、決定して自心を建立して教に順じて修行し、永く疑錯ぎしゃくを除いて、一切の別解別行、異学、異見、異執に退失傾動きょうどうせられざるなり」(聖典二・二九〇~一/浄全二・五七)というように「決定の信相」について示す。初めに「就人立信じゅにんりっしん(人に就いて信を立つ)」とは、①別解・別行異学・異見・異執の行者、②地前の菩薩羅漢辟支仏びゃくしぶつ等、③初地已上、十地已来の菩薩、④化仏・報仏の四種類の論難批判者によって、念仏往生を否定されたとしても決してそれに動揺したり受け入れたりせずに、決定往生信心を確立することをいう。このことは、回向発願心釈を述べ終わった最後に、善導二河白道譬喩によって語るところである。次に「就行立信じゅぎょうりっしん(行に就いて信を立つ)」については、「行に二種あり。一には正行。二には雑行なり」(聖典二・二九四/浄全二・五八)と分け、その正行五種正行)のうちの第四称名正行こそが、必ず往生を遂げられる行業であると深く信じることとする。

法然は、善導就人立信就行立信とにおいて解釈する深心について、『選択集』では、第八章で就人立信の部分をすべて引用し就行立信の部分は省略し、その部分は第二章で引用し詳しい私釈を付して論述している。善導就行立信の論述を五種正行、すなわち正定業助業として独立させる形となっていることが指摘できる。しかし第八章の私釈段で「深心とは、謂く深く信ずる心なり。まさに知るべし。生死の家には、疑いを以て所止と為し、涅槃の城には、信を以て能入と為す。故に今二種の信心を建立して、九品往生を決定する者なり」(聖典三・一五三/昭法全三三四)として、二種の信心の建立の理解を示している。

また法然は『観経釈』で、「今、此の経の三心は、即ち本願三心を開く。しかる故は至心とは至誠心なり、信楽しんぎょうとは深心なり、欲生我国とは回向発願心なり」(昭法全一二六)とするなど、法語では深心について多くを語っている。『三部経大意』では、「三心区区まちまちに分かれたりといえども、要を取り詮をえらんでこれをいえば深心に摂めたり」(聖典四・二八九/昭法全三二~三)として、三心のなか深心を重視し、『大胡太郎実秀へつかわす御返事』では、「誰も誰も煩悩の濃き薄きを顧みず、罪障の軽き重きをも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と称えん声につきて決定往生の思をなすべし。その決定の心をやがて深心とは名づくるなり。その深心を具しぬれば決定して往生するなり。詮ずるところは、とにもかくにも念仏して往生すということを深く信じて疑わぬを深心とは名づけてそうろうなり」(聖典四・三九九~四〇〇/昭法全五一八~九)と言う。法然深心重視は、安心のことに限定されずに、往生浄土の実践体系にも関わると言える。すなわち、『十二問答』で「問うて曰く。余仏余経につきて善根を修せん人に結縁助成けちえんじょじょうし候わん事は雑行と申候べきか」との質問に対して、法然は「我が心、弥陀仏の本願に乗じ、決定往生の信をとる上には、他の善根結縁助成せん事は全く雑行になるべからず。我が往生助業となるべきなり」(聖典四・四三四/昭法全六三三)と言って、決定往生信心を得ることができれば、雑行念仏を助成する業へと止揚されて、異類の助業になるとする。

聖光は『授手印』で、深心の具不具と往生の得否とについて二種の四句分別深心の四句)を述べ、『念仏三心要集』では「信心に付いて五あり」(浄全一〇・三八九上)として、①釈尊念仏往生の教え、②阿弥陀仏の第十八念仏往生の願、③六方恒沙の諸仏の証、④善導の教え(四つの理由を列挙)、⑤師法然の教えを信じることを勧め、一方で、四種類の疑いを挙げている。良忠は『領解抄』で、聖光の施した二種の四句分別にさらに三種を加えて五種の四句分別を述べている。良忠三心のなかで深心を正となし、深心の体は信心にあるとし、深心の程度分際は四種論難者に会っても退転しない信心をさす。すなわち、『東宗要』四で「深が中の深は退縁に遇うと雖も、退すべからず。深が中の浅は其の機劣るが故に、若し退縁に遇えば自ら退すべし」(浄全一一・八三下)としている。ちなみに、『維摩経』上には「深心は是れ菩薩浄土なり。菩薩成仏の時、功徳具足す。衆生其の国に来生す」(正蔵一四・五三八中)とあり、智顗撰述とされる『観経疏』下には「深とは仏果深高なれば、心を以て往求するが故に深心と云う。亦深理より生じ、亦厚く善根ねがうより生ずるが故なり。十地経に言わく、深広の心に入る。涅槃経に云わく、根深く抜き難しと、故に深心と言う」(正蔵三七・一九三下)という。


【資料】『維摩経』上、『華厳経』二四、智顗『観経疏』下、善導『観経疏』、『往生礼讃』、『選択集』、『和語灯録』、『授手印』、『西宗要』、『念仏三心要集』、『東宗要』、『伝通記』、『領解抄』


【参考】石井教道『浄土の教義と其教団』(富山房書店、一九七二)、藤堂恭俊『法然上人研究』(山喜房仏書林、一九八三)


【参照項目】➡三心深心の四句深心の分別就人立信就行立信信機・信法


【執筆者:藤本淨彦】