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六字釈

提供: 新纂浄土宗大辞典

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ろくじしゃく/六字釈

南無阿弥陀仏の六字に対する解釈のこと。『観経』に説く下下品十声称仏は、別時意であって即得往生はできないと摂論学派が批判したのに対して、南無阿弥陀仏には願と行とが具足しているから別時意ではなく、即得往生が可能であるという理由を明らかにするために、善導が述べたのが最初の釈である。『観経疏』玄義分に「今この『観経』の中の、十声の称仏は、すなわち十願十行有って具足す。云何が具足する。南無と言うは、すなわちこれ帰命、またこれ発願回向の義。阿弥陀仏と言うは、すなわちこれその行なり。この義を以ての故に必ず往生を得」(聖典二・一八二/浄全二・一〇上~下)と解釈している。この釈については法然門下においても、種々の解釈が見られる。良忠は『伝通記』玄義分記六に「至心信楽欲生我国は即ち南無の意なり、乃至十念は即ち是れ阿弥陀仏の四字なり、是をもって観経の下上下下に本願の行を説きて、称南無阿弥陀仏と云えり、故に南無阿弥陀仏と唱うるは即ち是れ願行具足の相なり」(浄全二・一九七下)と述べている。浄土宗においては心のなかに帰命の心があって往生せんことを願い、口に南無と称えるのが願、阿弥陀仏と称えるのが行であるとするのであるから、どんな下根下機の者でも、南無阿弥陀仏と称えればことごとく往生するのである。西山派においては、六字の名号のなかに阿弥陀の願も行も具足しているとして仏体即行を説き、如来招喚の勅命として受容するのであって、各派必ずしも一様ではない。


【資料】『伝通記』玄義分記六


【参照項目】➡願行具足仏体即行


【執筆者:金子寛哉】