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「二蔵二教判」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

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[[善導]]が『[[観経疏]]』において展開する[[教相判釈]]の呼称。二蔵とは[[菩薩]]蔵と[[声聞]]蔵、二教とは[[頓教]]と[[漸教]]。『[[観経疏]]』玄義分の冒頭にある帰敬偈には、「我れ、[[菩薩]]蔵、[[頓教一乗海]]に依って、偈を説いて、[[三宝]]に帰して、[[仏心]]と相応せん」(聖典二・一六〇/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0001 浄全二・一上]~下)とあり、同じく玄義分の宗旨不同門では、「問うて曰く、この経は二蔵の中には何れの蔵に摂し、二教の中には何れの教に収むる。答えて曰く、今、この[[観経]]は[[菩薩]]蔵に収む。[[頓教]]の摂なり」(同一六六/同[[三下]])と述べているように、[[善導]]は『[[観経]]』に説かれる教法が[[菩薩]]蔵[[頓教]]であると[[解釈]]している。そもそも二蔵にせよ二教にせよ、ともに[[仏教]]のすべての法門に対する分類であり、いずれの教えや経典であろうと、みなこのうちのどちらかに収められる。二蔵に関しては、『[[菩薩]]地持経』一〇に「[[如来]]は諸の[[菩薩]][[声聞]][[縁覚]]の為に、苦より出づる道を行じ[[修多羅]]を説きたまう。[[経蔵]]を[[結集]]する者は、[[菩薩]]の行を説くを以て[[菩薩]]蔵を立て、[[声聞]][[縁覚]]の行を説きて[[声聞]]蔵を立てり」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V30.0958b.html 正蔵三〇・九五八中]~下)と説かれているように、[[菩薩]]蔵とは[[菩提心]]を発して[[誓願]]をそなえ、[[六波羅蜜]]など[[自利]][[利他]]満足して覚りを獲得しようとする[[菩薩]]のための教法であり、[[声聞]]蔵とは[[四諦]]や[[十二因縁]]などの実践によって[[阿羅漢]]を獲得する[[声聞]]や[[独覚]]のための教法である。また、二教に関しては、天台[[智顗]]の『[[法華玄義]]』一〇に示されているように、[[釈尊]]の[[説法]]における二つの形式のこと。[[漸教]]とは[[衆生]]の能力に応じて、はじめ浅薄な内容の教えを説き示し、[[次第]]に深く高度な内容の教法へと説きすすめていくことであり、[[頓教]]とはそうした漸進的な手順をふまず、すぐさま奥深い法門を説くことである。なお、この[[二蔵二教判]]は[[浄影寺]][[慧遠]]の『[[観経]]義疏』([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J05_0170 浄全五・一七〇上]/[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V37.0173a.html 正蔵三七・一七三上])にすでに説かれており、[[善導]]はそれをほぼそのままに受け入れたのであり、[[善導]]によって立てられた独自の[[教相判釈]]ではない。
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[[善導]]が『[[観経疏]]』において展開する[[教相判釈]]の呼称。二蔵とは[[菩薩]]蔵と[[声聞]]蔵、二教とは[[頓教]]と[[漸教]]。『[[観経疏]]』玄義分の冒頭にある帰敬偈には、「我れ、[[菩薩]]蔵、[[頓教一乗海]]に依って、偈を説いて、[[三宝]]に帰して、[[仏心]]と相応せん」(聖典二・一六〇/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0001 浄全二・一上]~下)とあり、同じく玄義分の宗旨不同門では、「問うて曰く、この経は二蔵の中には何れの蔵に摂し、二教の中には何れの教に収むる。答えて曰く、今、この[[観経]]は[[菩薩]]蔵に収む。[[頓教]]の摂なり」(同一六六/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0003 同三下])と述べているように、[[善導]]は『[[観経]]』に説かれる教法が[[菩薩]]蔵[[頓教]]であると[[解釈]]している。そもそも二蔵にせよ二教にせよ、ともに[[仏教]]のすべての法門に対する分類であり、いずれの教えや経典であろうと、みなこのうちのどちらかに収められる。二蔵に関しては、『[[菩薩]]地持経』一〇に「[[如来]]は諸の[[菩薩]][[声聞]][[縁覚]]の為に、苦より出づる道を行じ[[修多羅]]を説きたまう。[[経蔵]]を[[結集]]する者は、[[菩薩]]の行を説くを以て[[菩薩]]蔵を立て、[[声聞]][[縁覚]]の行を説きて[[声聞]]蔵を立てり」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V30.0958b.html 正蔵三〇・九五八中]~下)と説かれているように、[[菩薩]]蔵とは[[菩提心]]を発して[[誓願]]をそなえ、[[六波羅蜜]]など[[自利]][[利他]]満足して覚りを獲得しようとする[[菩薩]]のための教法であり、[[声聞]]蔵とは[[四諦]]や[[十二因縁]]などの実践によって[[阿羅漢]]を獲得する[[声聞]]や[[独覚]]のための教法である。また、二教に関しては、天台[[智顗]]の『[[法華玄義]]』一〇に示されているように、[[釈尊]]の[[説法]]における二つの形式のこと。[[漸教]]とは[[衆生]]の能力に応じて、はじめ浅薄な内容の教えを説き示し、[[次第]]に深く高度な内容の教法へと説きすすめていくことであり、[[頓教]]とはそうした漸進的な手順をふまず、すぐさま奥深い法門を説くことである。なお、この[[二蔵二教判]]は[[浄影寺]][[慧遠]]の『[[観経]]義疏』([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J05_0170 浄全五・一七〇上]/[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V37.0173a.html 正蔵三七・一七三上])にすでに説かれており、[[善導]]はそれをほぼそのままに受け入れたのであり、[[善導]]によって立てられた独自の[[教相判釈]]ではない。
 
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【参照項目】➡[[浄土相頓]]、[[頓漸二教判]]
 
【参照項目】➡[[浄土相頓]]、[[頓漸二教判]]
 
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【執筆者:齊藤隆信】
 
【執筆者:齊藤隆信】

2018年9月17日 (月) 10:09時点における版

にぞうにきょうはん/二蔵二教判

善導が『観経疏』において展開する教相判釈の呼称。二蔵とは菩薩蔵と声聞蔵、二教とは頓教漸教。『観経疏』玄義分の冒頭にある帰敬偈には、「我れ、菩薩蔵、頓教一乗海に依って、偈を説いて、三宝に帰して、仏心と相応せん」(聖典二・一六〇/浄全二・一上~下)とあり、同じく玄義分の宗旨不同門では、「問うて曰く、この経は二蔵の中には何れの蔵に摂し、二教の中には何れの教に収むる。答えて曰く、今、この観経菩薩蔵に収む。頓教の摂なり」(同一六六/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0003 同三下])と述べているように、善導は『観経』に説かれる教法が菩薩頓教であると解釈している。そもそも二蔵にせよ二教にせよ、ともに仏教のすべての法門に対する分類であり、いずれの教えや経典であろうと、みなこのうちのどちらかに収められる。二蔵に関しては、『菩薩地持経』一〇に「如来は諸の菩薩声聞縁覚の為に、苦より出づる道を行じ修多羅を説きたまう。経蔵結集する者は、菩薩の行を説くを以て菩薩蔵を立て、声聞縁覚の行を説きて声聞蔵を立てり」(正蔵三〇・九五八中~下)と説かれているように、菩薩蔵とは菩提心を発して誓願をそなえ、六波羅蜜など自利利他満足して覚りを獲得しようとする菩薩のための教法であり、声聞蔵とは四諦十二因縁などの実践によって阿羅漢を獲得する声聞独覚のための教法である。また、二教に関しては、天台智顗の『法華玄義』一〇に示されているように、釈尊説法における二つの形式のこと。漸教とは衆生の能力に応じて、はじめ浅薄な内容の教えを説き示し、次第に深く高度な内容の教法へと説きすすめていくことであり、頓教とはそうした漸進的な手順をふまず、すぐさま奥深い法門を説くことである。なお、この二蔵二教判浄影寺慧遠の『観経義疏』(浄全五・一七〇上正蔵三七・一七三上)にすでに説かれており、善導はそれをほぼそのままに受け入れたのであり、善導によって立てられた独自の教相判釈ではない。


【参照項目】➡浄土相頓頓漸二教判


【執筆者:齊藤隆信】