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提供: 新纂浄土宗大辞典

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りょうてき/了的

—寛永七年(一六三〇)九月一五日。伝蓮社桑誉。増上寺一四世。甲斐国の生まれで、姓は近藤氏。府中瑞泉寺(甲府市中央)で出家し、武蔵国上蓑長伝寺(さいたま市中央区本町東)に転じて存応の門下となった。文禄三年(一五九四)五重血脈円頓戒を授かり常随の弟子となり、慶長八年(一六〇三)には小田原大蓮寺(神奈川県小田原市南町)に住し弟子の育成に努めた。同一三年江戸城で行われた日蓮宗との宗論では、同門廓山の介添えとして活躍し、元和二年(一六一六)京都金戒光明寺の二七世となり、後水尾天皇から紫衣被着の綸旨を賜っている。了的存応門下の双璧廓山吞龍らとともに宗政を任されていたが、存応了的を最も重んじていたようで、遺言でも彼を後継者と定めていた。同六年存応が亡くなると、廓山増上寺法灯を継ぎ一三世となったが、寛永二年(一六二五)廓山没後幕命により一四世となり、教団の組織化に尽力した。同七年九月一五日遷化


【資料】『三縁山志』九(浄全一九)、『黒谷誌要』(浄全二〇)


【参考】玉山成元『中世浄土宗教団史の研究』(山喜房仏書林、一九八〇)、宇高良哲「源誉存応門下における廓山と了的」(櫛田博士頌寿記念『高僧伝の研究』山喜房仏書林、一九七三)


【執筆者:福田行慈】