「道理破」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:30時点における最新版
どうりは/道理破
善導が『観経疏』玄義分の七門料簡中、第六「経論の相違を和会する(経論相違門)」の中の第二「道理を以て来し破す」(聖典・一七〇/浄全二・五下)と説示する箇所のこと。この道理破では、諸師(特に浄影寺慧遠)の九品階位設定に対して、上品三生および中品三生の解釈を中心として、その内容が大きく誤った理解であると指摘している。善導は諸師が提示した、上品上生を四地以上七地未満の菩薩として、および上品中生を初地以上四地未満の菩薩として設定したことについて、『華厳経』を典拠として、「初地から六地までの菩薩は法性生身あるいは変易生身であって、分段生死の苦しみを受けることがなく、仏道修行を開始してから既に二大阿僧祇劫を経ており、自利行を既に完成させ、利他行を実践する過程の高位の菩薩である」と規定している。そのうえで、このような高位の菩薩がなにゆえに韋提希の致請に乗じて阿弥陀仏の浄土に往生を求める必要があるのかと指摘している。上品下生については、諸師が「種性以上初地未満の菩薩」と設定したことに対して、「これらの菩薩は不退であり八相成道を実行し、利他行を修し、仏道修行を開始してから既に一大阿僧祇劫を経ている」と規定したうえで、前述と同様にこれらの菩薩が韋提希致請に依拠する必然性が皆無であることを指摘している。さらに中品三生についても、上品三生と同様に四果人が韋提希致請に依拠する必然性はないことを指摘している。つまり善導は上品三生および中品三生がそれぞれ諸師の提示するような高位の菩薩あるいは小乗の実践階位者であるとするならば、彼らは韋提希致請に依拠する必然性が皆無であることから、このような高位の設定を行うことそのものを批判し、九品に説示されている人々はあくまでも救済を必要とする「常没衆生」であると主張している。
【執筆者:柴田泰山】