黒田真洞
提供: 新纂浄土宗大辞典
くろだしんとう/黒田真洞
安政二年(一八五五)—大正五年(一九一六)一月二五日。明治期の学僧。江戸日本橋に黒田嘉右衛門の次男として生まれ、増上寺の一誉真我の寮に入って剃髪、名を真洞と改めた。長じて京都で宗学を修め、後に上京し増上寺に掛錫して岸上恢嶺・石井大宣について宗学を究め、さらに福田行誡からも宗学を学んだ。明治一七年(一八八四)、増上寺の慈忍室に止住したが、ときに芝岳学頭に推され、同志に『俱舎論』を講じた。その名声日にあがり、同一八年九月越智専明のあとをうけて東部大学林の主幹に就任。万里小路照道とはかり学制を改め、同一九年に東西の確執がおこると浄土宗学本校の創設に心を致し、同二〇年その設立が成ると、弱冠三三歳の身で校長・学監を兼ね教学を総理した。同二三年一時三星善応が校長職についたが、同二七年再度推されて校長となり、人材の発掘と後進の指導にあたった。次いで同三〇年四月伊達霊堅に代わって宗務執綱となり、一宗の綱紀を刷新し、教学の振興をはかって、翌三一年八月、行政区域の廃合を断行し、新たに八大教区として、専門・高等の二学院および八教校を置くこととした。同三二年一〇月、淑徳家政女学校校長に就任、翌三三年七月、宗務執綱を辞すると伝道講習院院長兼講授になり、同三八年四月浄土宗大学学長に就任。翌三九年八月勤息義城・大鹿愍成とともに勧学に叙せられた。同四〇年宗教大学学長となり、将来の発展を目ざして巣鴨に広大な敷地を求め、翌四一年九月校舎を小石川より巣鴨に移して内容の充実をはかるべく、献身的努力をつづけた。黒田は新たに宗憲を制定し、また宗学振興の淵源ともいうべき教育制度の改正を断行した。同四五年正僧正に叙せられたが、病のおかすところとなり大正五年示寂。没後ただちに大僧正を追贈された。『法相以呂波目録』二巻、『標註八宗綱要』二巻、『科註浄土三心私記裏書』、『浄土宗綱要』などをはじめ数多の著書があり、現代略式の僧服として用いられている黒の道衣(改良服)は、黒田の考案したものであるという。
【参照項目】➡道衣
【執筆者:宇高良哲】