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善光寺大本願

提供: 新纂浄土宗大辞典

ぜんこうじだいほんがん/善光寺大本願

長野市元善町。一四の坊を塔頭たっちゅうに持つ浄土宗大本山(昭和二九年〔一九五四〕四月一日指定)。大本願と大勧進天台宗)の住職に就任した者はそれぞれ宗教法人善光寺住職に就任する。三国伝来日本最初の仏、一光三尊阿弥陀如来を安置する善光寺を守護する役を担う。開山は皇極天皇名代として遣わされた蘇我馬子のむすめ、善阿尊光と伝えられる。以来皇族・公家・大名家の家柄から出家した尼公上人住職を務める。

本願住職を指す本願上人の名称の初見は、戦国時代武田信玄が善光寺本尊ほかを甲斐に移し善光寺を建立した棟札に永禄七年(一五六四)、一〇七世(一説には三七世)の鏡空が甲斐善光寺開山上人と記されているなかに見られる。慶長六年(一六〇一)には、幕府より谷中に寺領を与えられ江戸別院谷中善光尼寺を建立するも焼失、元禄一六年(一七〇三)に青山に替地を受け、一一〇世誓信が青山善光寺として再興する。以来一五〇年にわたり尼公上人は信州と江戸を行き来した。江戸にあっては徳川幕府よりの庇護篤く善光寺信仰布教の拠点となった。現在、善光寺本堂北に徳川大奥関係者の供養塔が安置される廟所があるのも、この間の徳川家の庇護の証である。この青山善光寺以外に末寺が三箇寺あった。弘治三年(一五五七)上杉謙信が善光寺如来を移したことから末寺となった越後十念寺は、浜善光寺とも呼ばれ、江戸時代には毎年塩年貢を納めていた。また、この越後の善光寺がかつて浜に漂着した涅槃釈迦像を大本願に奉納し、現在は善光寺世尊釈迦堂に祀られている。元禄一一年(一六九八)に一一三世智善が将軍より賜った善光如来旧跡の阿弥陀池(難波堀江)に建立されたのが大阪和光寺である。同寺は京阪方面の大本願寺務を代行し、幕末まで勅許関係について聖護院門跡を通じて朝廷との交渉にあたっていた。さらには、天保八年(一八三七)大本願晋山し、明治維新後の神仏分離令に伴う「還俗令」に反し尼僧の立場を貫き、善光寺仏教寺院として護り抜き、大本願の中興となった伏見宮邦家親王三女の一一七世誓円が明治二八年(一八九五)に兄である久邇宮朝彦親王の配慮により、知恩院山内の地を拝受し建立したのが京都得浄明院である。この三箇寺のほかに、昭和七年(一九三二)に一一九世智栄が、御親修にあたり開基した台湾北投区の善光寺、さらには、同三七年に開基した信州上山田の観音寺がある。

宝永七年(一七一〇)、大本願比叡山延暦寺支配下に置かれる令が下され浄土宗から離れるが、幕府や隣接する天台宗勧進との訴訟が多発し、尼公上人が青山善光寺に住することが多くなった。明治九年(一八七六)両宗併立対当分掌指令が教部省より下され、大本願と一四坊は浄土宗に復宗。以後大勧進と協力和合し、善光寺本尊に奉仕することとなり、大本願と大勧進住職善光寺住職に就いている。宝物では国重要文化財の「絹本著色阿弥陀如来聖衆来迎図」(伝源信)をはじめ、武田信玄、徳川家康の発給文書、天皇の書などが多数保有されている。また、平成一九年(二〇〇七)の明照殿増改築工事中に埋蔵文化財調査の結果、六~七世紀白鳳時代の軒瓦が発掘され、草創の歴史に一石を投じている。


【参考】坂井衡平『善光寺史』(東京美術、二〇〇四)、善光寺史研究会編『善光寺史研究』(公友新報社、一九二二)、鷹司誓玉『本蓮社おぼえ書』一(信濃教育会出版部、一九九七)、『近世以降歴代善光寺上人ゆかりの品』(大本山善光寺大本願、二〇〇八)【図版】巻末付録


【参照項目】➡善光寺和光寺得浄明院


【執筆者:若麻績侑孝】