勧学院
提供: 新纂浄土宗大辞典
かんがくいん/勧学院
一
明治初期に知恩院内に設置された宗侶教育のための機関。現在の佛教大学、東山中学校・高等学校の前身。明治元年(一八六八)三月、知恩院七三世であった名誉学天は「勧学の諭達」を発し、宗学の興隆および宗侶教育の充実を宗内に勧告した。それを受けて勤息義城ら青年宗侶によって、同年秋頃に仏教講究のための機関が知恩院山内の源光院に設置された。その後、青年宗侶たちは恒常的な施設の開設を要求し、その結果、同三年一月、源光院に仮勧学場が設置される。そして同年八月、知恩院に対して「入信院ニテ学校御取建願」が提出され、同四年一月には規模を拡大して入信院に移転、名称も勧学院(別名—華頂山勧学院、勧学所)と改称された。設立当初は京都市内からの受講生が多くを占めたが、次第に広範囲から集まるようになり、関西地域の知恩院門末寺院の宗侶教育機関としての地位を確立していった。同七年四月、増上寺興学所や山口興学場にて功績をあげた養鸕徹定が知恩院七五世になると、設備や教育機構が近代化され学校形式となり、名称も勧学本場と改称された。その後、西部宗学本校、西部大学林、佛教専門学校など、組織改編にともない改称・発展していくこととなるが、西日本における宗侶教育機関として常に重要な位置にあり続けた。
【参考】『東山学園百年史』(東山学園、一九六七)、『佛教大学史』(佛教大学、一九七二)、『大正大学五十年略史』(同編纂委員会、一九七六)
【執筆者:江島尚俊】
二
浄土宗における教義、宗義に関する最高諮問機関。平成三年(一九九一)七月、第五二次臨時宗議会で『浄土宗宗綱』の改正が行われ、従前の宗綱での勧学寮にかわって勧学院が規定された。宗綱第三六条には「本宗の宗義に関する浄土門主の諮問に答えるため勧学院を置く」とある。運用規則は平成四年三月の宗議会で可決され、「勧学院規程」(宗規第九一号)として同四年四月一日から施行されている。この宗規施行にともない従前の勧学寮規程(宗規第二一号)は廃止された。勧学院規程は、改正の検討を行った制度審議会の答申を参照し、基本的には従前の勧学寮規程の各名称を勧学院規程に改めたものである。勧学院の職務権限は、勧学院規程第二条に規定され、浄土門主の諮問に係る浄土宗の教義に関する重要事項その他宗門法制によりその権限に属するものと定める事項を審議し、宗義安心について答申することである。勧学院は学階「勧学」を有する者をもって組織され、勧学院のうちから勧学職が定められ、勧学職の中から勧学院長が互選される。
【執筆者:今岡達雄】