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二河白道

提供: 新纂浄土宗大辞典

にがびゃくどう/二河白道

善導の『観経疏散善三心釈中の回向発願心釈において説かれている譬喩。過去からの善根功徳回向することによって往生浄土が成就されることに対して、たとえ異見・異学・別解・別行の者によって否定されたとしても、決して動乱破壊されることなく、一心往生を信じて有縁の行を実践していく堅い決意を持つべきことを説き示した譬喩譚である。要約すると内容は以下のとおり。ここに西に向かって百千里の道を歩いて行く者がいる。その人の前に突然河が現れる。南には火の河が燃えさかり、北には水の河が渦巻いていた。河の幅は百歩ほどであるが、底も見えず南北は果てしなく水火がつづいている。水火の分かれ目に一本の白い道が西岸まで通じているが、その白道はわずか四、五寸ほどの細さで、しかも火焰と波浪が常に襲いかかり、対岸に渡るにはあまりにも危険であった。また、後を振り返れば多くの賊徒や悪しき猛獣たちがこちらに向かってきている。そこで次のように思った。西へ向かえば西岸に渡る白道がある。しかし対岸は遠くないとはいえ、この白道は渡るにはあまりにも幅が狭く、足を踏み外せば確実に死んでしまうだろう。東に引き返したとしても賊徒や猛獣たちが群れをなして襲いかかってくる。南北に逃げようとしたところで、やはり賊徒と猛獣が向かってくるだろう。その人の心は恐怖でいっぱいとなったが、引き返しても、ここにとどまっていても、そしてこの道を前に進んで行くにしても、結局のところ死は免れそうにない。それならば、目の前に道があるのだから、この道をまっすぐに進んで行こうと意を決した。すると、東岸からは、「この道をまっすぐ進んでいきなさい、死難などはありません。もしここにとどまれば必ずや死んでしまうだろう」と語りかける声がした。また西岸からも、「心を定めてただちにこちらに渡ってきなさい。お前を守護してやろう。水火の河など恐れてはならない」と語る声がした。東からは「行け」と、西からも「来い」という激励の声がしたので、疑いや不安な気持ちは消えさり、決然と白道を進んでいった。すると、東岸から賊徒や猛獣たちが、「戻ってきなさい、その白道は危険で悪しき道だから渡りきれはしない。我われに悪しき心などはないのだ」と引きとめようとするが、そうした誘惑の声にも決して振り返ることもなく白道を進んでいくと、すぐさま西岸に渡りついて、諸難に遇うことはなかった。以上が譬喩譚の内容であるが、つぎに合喩として、譬喩が意味するものを解釈している。それによると、東岸は娑婆火宅、西岸は阿弥陀仏極楽、群賊悪獣は衆生の六根・六識六塵・五陰・四大にたとえ、水火の二河はそれぞれ貪愛と瞋憎、白道とは衆生清浄な願往生心、白道を渡って西に進むとは善業を回向して往生を願うことにたとえ、そして東岸の声とは釈尊発遣、西岸の声とは阿弥陀仏招喚にたとえられるという。

類似の譬喩譚を説くものに、曇無讖訳『大般涅槃経』二三(正蔵一二・四九九上)、鳩摩羅什訳『大智度論』三七(正蔵二五・三三一中)や、曇鸞略論安楽浄土義』(浄全一・六七一下正蔵四七・三下)、道綽安楽集』上第三大門の広施問答浄全一・六八八上正蔵四七・一一上中)がある。おそらく善導はこうした諸文献を参照しつつ独自の譬喩を創作したものと考えられる。また、この二河白道譬は、衆生の願往生心のありようを説いているのであるが、釈迦発遣弥陀招喚とあるごとく、往生浄土の教えが釈尊阿弥陀仏二尊によって勧励され保証された教え(二尊教)であることを示そうとしている。善導は『観経疏』玄義分に「娑婆の化主は、その請に因るが故に、すなわち広く浄土要門を開き、安楽の能人は、別意べっち弘願を顕彰したまう。…仰ぎおもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなわちかの国より来迎したまう。かしこに喚び、ここにる、あに去らざるべけんや」(聖典二・一六二~三/浄全二・二上)と述べ、また『観経疏定善義第七華座観釈に「娑婆の化主は物の為の故に、想を西方に住せしめ、安楽の慈尊は情を知りたまうが故に、すなわち東域に影臨ようりんしたまうことを明す。これ、すなわち、二尊許応異こおうことなること無し、ただ、これ隠顕殊なること有り、正しく、器朴の類、万差なるに由って、互いに郢匠えいしょうたらしむことを致す」(聖典二・二六二/浄全二・四四上)とも述べている。

この譬喩譚ははやく鎌倉中期には日本の六道絵来迎図の影響を受けて絵画化されるとともに、浄土教布教教材としても用いられたようであり、鎌倉、室町を通して作られた二河白道図は、京都光明寺蔵本、兵庫香雪美術館蔵本、奈良国立博物館蔵本、京都清凉寺蔵本など十数種が現存している。なお、浄土宗における伝宗伝戒道場や、在家信者浄土宗の教えを伝える五重相伝(化他五重)において、二河白道図をもって浄土宗信仰のありさまを伝えるとともに、実際に要偈道場においては白布を敷いて白道にみたて、受者をして本尊阿弥陀仏像に向かって歩ませる作法を行っている。


【参考】成田俊治「弥陀信仰と六道絵—地獄変から二河白道図への展開—」(『人文学論叢』一二、一九七八)、塩竈義明「二河白道説の思想材について」(『仏教論叢』三一、一九八七)、加須屋誠「二河白道図試論—その教理的背景と図様構成の問題—」(『美術史』一二七、一九九〇)、廣川堯敏「鎌倉浄土教における二河白道喩釈」(『西山学会年報』六、一九九六)


【参照項目】➡二河白道図


【執筆者:齊藤隆信】