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決疑鈔直牒

提供: 新纂浄土宗大辞典

けつぎしょうじきてつ/決疑鈔直牒

一〇巻。たんに『直牒』ともいう。聖冏撰。応永三年(一三九六)成立。良忠の『決疑鈔』についての註釈である。聖冏は第一巻に「千葉の一門鏑木かぶらぎ九郎入道法名在阿)と云うひとこれあり。当流の相伝たしかに聞いて二心なく、帰依の余りこの鈔を請するに依りて、下総国鏑木に於いてこの鈔を書かる」(浄全七・四五九下)と『決疑鈔』の由縁を示している。その書について『浄土述聞口決鈔』に「諸鈔の中において若し相違あらば、伝通記決疑鈔を用いて本説として、余の鈔を会すべし」(浄全一一・六四四上)と述べているように、良忠が伝承した宗義について『伝通記』『決疑鈔』を確実なものと評価し、その末註書を著している。この書は佐竹義秀の乱が起こり、現在の茨城県常陸ひたち太田市松栄町の洞窟に避難し、木の実や干し柿を食しながら、その岩から滴る水によって墨をすり、記憶の中にある経論を引用しながら著したと伝えられている。そのために洞窟は直牒洞じきてつどうと呼ばれ、隣には瓜連うりづら常福寺三世明誉了智によって、聖冏の一三回忌報恩のため香仙寺が建立されている。この佐竹義秀の乱については応永一四年(一四〇七)以降との指摘もあり、他の戦乱とも考えられる。本書執筆の目的は良忠良暁と伝承された白旗流の教えを提示することであり、「相伝」「師仰」としてとり上げる相伝の義、良忠門下における小坂義、藤田義などの異説を並べ「今私云」として自説を述べている。『選択集』一六章に対応し、重要語句について随自顕宗という伝統的な解釈が示されており、仏教経論のほか、『論語』『孝経』等により漢字の解説に努め、そこには聖冏独特の幅広い知識が込められている。注釈書には聖聡の説を了暁が記したと考えられる『決疑鈔直牒見聞』三巻があり、刊本に寛永六年(一六二九)、慶安四年(一六五一)、福田行誡校訂の明治一七年(一八八四)のものがある。


【所収】浄全七


【参考】峰島旭雄「了誉聖冏における随自顕宗の論理」(『井川定慶博士喜寿記念 日本文化と浄土教論攷』井川博士喜寿記念会、一九七四)


【参照項目】➡直牒洞


【執筆者:服部淳一】