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南都北嶺

提供: 新纂浄土宗大辞典

なんとほくれい/南都北嶺

南都とは北の平安京に対する奈良であり、南京なんきょうともいう。また、興福寺を中心とする寺社勢力をも意味する。一方、北嶺とは比叡山延暦寺のこと。これらは、中世社会に大きな影響力を有した。興福寺は、藤原氏の氏寺であり、摂関期以降勢力が拡大し、公家出身で入寺するものが増加した。また九世紀の初頭、最澄比叡山天台宗を開き、大乗戒壇を創設したため、それ以降、南都と叡山は対立を続けた。中世においては僧兵の武力を背景に、興福寺は春日の神木、延暦寺は日吉社の神輿を奉じて朝廷に強訴した。また双方は互いに抗争を繰り返した。なお文治二年(一一八六)法然南都北嶺の僧達と洛北大原勝林院において問答を行った。世に言う大原問答である。


【参考】黒田俊雄「中世寺社勢力論」(『岩波講座日本歴史』)六、岩波書店、一九七五)


【執筆者:舩田淳一】