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人格仏

提供: 新纂浄土宗大辞典

じんかくぶつ/人格仏

衆生に対して人格的な対応をなす仏のこと。法然は『往生浄土用心』において『観経疏定善義の親縁釈を解釈して、「衆生仏を礼すれば仏これを見たまう、衆生仏を称うれば仏これを聞きたまう、衆生仏を念ずれば仏も衆生を念じたまう。かるが故に阿弥陀仏三業行者三業とかれこれ一つになりて、仏も衆生も親子のごとくなる故に親縁と名づく」(聖典四・五五〇/昭法全五五九)と述べており、ここでは衆生の「礼・称・念」という行為に対して阿弥陀仏が「見・聞・念」という人格的な対応をなすことが示されている。また『示或人詞』には「弥陀本願を決定成就して極楽世界荘厳し立てて、御目を見回わして我が名を称うる人やあると御覧じ、御耳を傾けて我が名を称する者やあると、夜昼聞し召さるるなり」(聖典四・五一二/昭法全五八八)とあり、阿弥陀仏が目と耳によって念仏を称えた衆生を見出すことを明らかにしている。このように、衆生念仏行に対して、阿弥陀仏は人格的な対応をするのである。阿弥陀仏が人格性を有する仏である故に、念仏衆生との間に呼応関係が成立するということができる。


【参考】髙橋弘次「法然浄土教の身土観」(『法然浄土教の諸問題—改版増補—』山喜房仏書林、一九九四)


【執筆者:曽根宣雄】