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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0678A01: 華入疏探玄記。識知淨土論私記一卷。淨土源流章私
J20_0678A02: 記一卷等の錄數部のみ。
J20_0678A03: 典壽― 一八一四江戸の人。縁山に掛錫せしも。訥辯
J20_0678A04: 衆嘲を怒り。辭山京都に赴き。始め獅溪金毛窟に住
J20_0678A05: し後嵯峨寶筐庵に移り。文化十二年七月二十三日寂
J20_0678A06: す。識見高邁にして内外に博通せしが。就中華嚴に
J20_0678A07: 精通し。又文字に委しく校讐に巧にして。寬政版觀
J20_0678A08: 心覺夢鈔。新版傳通記等は其校訂する所なり。
J20_0678A09: 恢麟― 一八二四國譽と號す。始三田濟海寺雲應の資
J20_0678A10: たりしが。後知恩院聖譽靈麟の資と成る。一時縁山
J20_0678A11: の學席に主たりしも。當時の縁山所化の學風萎微不
J20_0678A12: 振を慨し。味噌蓋燒かずんば眞學起らずと絶叫した
J20_0678A13: り。是により衆侶の憎惡する所となり辭山して西遊
J20_0678A14: す。時に文化九年なり。當時智積院に海應。深慧二學
J20_0678A15: 匠あり倶舍唯識の巨擘たり。麟。深慧に從ひ奈良に赴
J20_0678A16: き性相を練磨し。後一心院に住し。京都奈良の間を往
J20_0678A17: 來して講筵虚日なし。從來唯識論述記は浩瀚なるが
J20_0678B18: 爲に講者も聽者も卷を終らずして廢すること多かりし
J20_0678B19: が。鱗一夏九旬に講了して聽者を倦ましめざりしと
J20_0678B20: 云ふ。以て其の機敏を見るべし。著す所法相伊呂波
J20_0678B21: 名目四卷等あり。
J20_0678B22: 音澂一七五七 一八三三忍譽と號す。三河の人にして同國遍
J20_0678B23: 照院穩冏を師とす。關東遊學の後寬政元年京都に上
J20_0678B24: り華頂山内既成院に寓す。同年洛西池上西光庵に移
J20_0678B25: 住し大乘義章及唯識述記を講ず。同三年京極勝圓寺
J20_0678B26: に轉じ獅溪金毛院に往返して典壽と大藏對校錄を校
J20_0678B27: 正す。同四年衆請に應じて倶舍論を寺坊に講ず。同年
J20_0678B28: 九月淨福寺に晋み倶舍論の講を續け。或時請により
J20_0678B29: 維摩經を講ず。同八年義林表無表章を講じ。同九年
J20_0678B30: 倶舍の續講を始め十月に畢る。同十年敎誡律儀及六
J20_0678B31: 物圖等を。同十一年唯識述記を。同十二年華嚴五敎
J20_0678B32: 章を講ず。享和三年三河に遊化し淨久寺に起信論を
J20_0678B33: 講ず。同年十一月本山役者に任ぜられ宗鏡錄を講ず。
J20_0678B34: 文政元年六月典壽の業を繼ぎ傳通記を校讐上梓す。

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