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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0623A01: とし。事實は從來の慣例を固執せんことに苦心せり。
J20_0623A02: 故に此の際には脇坂寺社奉行の意見は行はれざりし
J20_0623A03: も。天保年度再び寺社奉行就職の際には。多少この
J20_0623A04: 意見を實行したるが如し。然れども十八檀林以外の
J20_0623A05: 人物を香衣檀林住職に任命することは。遂に實現せ
J20_0623A06: られずして只傳通院の所化を任命したるに過ぎざり
J20_0623A07: き。
J20_0623A08: 名越兩檀林は。其寺の住職闕如の時は。增上寺よ
J20_0623A09: り其寺の伴頭に任命せらるるが故に。極めて簡單な
J20_0623A10: りしが如し。
J20_0623A11: (二) 紫衣檀林 一命紫衣地の住職欠如の際は。香
J20_0623A12: 衣十二檀林能化の中より。法﨟席順により增上寺方
J20_0623A13: 丈二名を書上げ。兩名の中幕府これを任命す。再命
J20_0623A14: 紫衣地欠職の際は。一命紫衣地の能化の法﨟順序に
J20_0623A15: よりて。任命せらるることとなりしも。是れ又中古以
J20_0623A16: 來の慣例にして。光明寺は三十八世大譽檀説(明曆二
J20_0623A17: 年寂)に至るまで。傳通院は十世信譽巖宿(延寶八
J20_0623B18: 年增上寺に轉住す)に至るまでは。一命紫衣地以外の
J20_0623B19: 香衣檀林より超入せるもの少からず。寬政年中脇坂
J20_0623B20: 淡路守寺社奉行たりし頃此慣例をも破壞し。寬政二
J20_0623B21: 年十一月二日靈巖寺先住嶺譽智堂を傳通院住職に拔
J20_0623B22: 抽し。智堂が寬政四年二月增上寺に移るや。引込紫
J20_0623B23: 衣地たる淨華院の仰譽聖道を延いて其後住となせ
J20_0623B24: り。然れども此政策も脇坂の失脚と同時に廢れて又
J20_0623B25: 舊慣によることとなれり。
J20_0623B26: (三) 總錄所總本山 增上寺知恩院の住職は。再命
J20_0623B27: 紫衣地たる光明寺傳通院より任命せらるること。是
J20_0623B28: れまた中古以來動かすべからざる慣習となれり。增
J20_0623B29: 上寺には三十四世證譽雲臥は元祿十三年八月飯沼よ
J20_0623B30: り超昇し。知恩院に五十世靈譽鸞宿延享二年五月瓜
J20_0623B31: 連より超住したるを最後として。他山よりは全く轉
J20_0623B32: 昇を許さざりしが。增上寺へは脇坂再度寺社奉行の
J20_0623B33: 際。即ち天保十一年二月知恩院瑞譽巨東の任命を見
J20_0623B34: たり。這は前に智堂聖道が相次いで傳通院に拔抽せ

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