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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0607A01: 三河菩提所の中。松平高月院は。松平氏祖先親氏
J20_0607A02: 泰親の菩提所たるのみならず。德川氏發祥地所在の
J20_0607A03: 寺院として。德川氏の崇敬厚く、元祿十四年五月二
J20_0607A04: 十一日宣旨を賜ふ。
J20_0607A05: 岩津信光明寺は。泰親の子にして岩津城主たりし
J20_0607A06: 信光の創建する所にして。其の墳寺たるが故に。寶
J20_0607A07: 永三年十二日九日宣旨を賜ふ。大樹寺は信光の息親
J20_0607A08: 忠の創立する所にして。親忠以後德川氏五世の香華
J20_0607A09: 院として。家康の父廣忠の葬られしのみならず。寺
J20_0607A10: 僧の家康を助け一向一揆等を擊退し其難を救ふこと一
J20_0607A11: 再に止まらず。從て德川氏の崇敬は增上寺の上にあ
J20_0607A12: り。故に德川氏の奏請による紫衣永宣旨は此寺を以
J20_0607A13: て最初とす、即慶長十一年九月七日之を賜ふ。增上
J20_0607A14: 寺は慶長十三年十一月十二日なり。松應寺は上の三
J20_0607A15: 寺に比すれば其由緖甚薄く。只廣忠火葬の地なるに
J20_0607A16: よりて創立せられたるものにして。其紫衣の宣旨も
J20_0607A17: 餘程後なるが如し。
J20_0607B18: 駿府寶臺院は。二代將軍秀忠の生母寶臺院の香華
J20_0607B19: 院なり。本鎌倉觀譽祐崇の開らく所に所にして龍泉
J20_0607B20: 寺と號せしが。寬永五年五月十九日。三十三年忌正
J20_0607B21: 當に際し敕使參向し贈位の宣命を讀み。且つ寺號を
J20_0607B22: 今の如く改めて(院號を通稱とす)。常紫衣の綸旨を
J20_0607B23: 賜ふ。故に大樹寺。傳通院に次ぎ尊崇せられたり。
J20_0607B24: 福井運正寺は。家康の二男越前中納言秀康の香華
J20_0607B25: 院なり。秀康は二代將軍秀忠の兄として威望あり。
J20_0607B26: 幕府の待遇も尋常ならざりしが。慶長十二年閏四月
J20_0607B27: 八日病て薨ずるや。始は其養家結城氏の宗旨たる曹
J20_0607B28: 洞宗孝顯寺に葬りしも。東照公の命により知恩院滿
J20_0607B29: 譽彼地に下り。改め葬儀を執行し。其埋葬地に一寺
J20_0607B30: を建立し。之を淨光院運正寺と號す。
J20_0607B31: 名古屋建中寺は。尾張侯の香華院にして。慶安五
J20_0607B32: 年五月。尾州侯光友が先考義直の爲に創建せる所に
J20_0607B33: して。結城弘經寺廓呑を請して開山となし。寺領五
J20_0607B34: 百石を附す。同年六月廿二日廓呑參内して紫衣永宣

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