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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0600A01: らず。此爭は大永元年正月。超譽が知恩院に住し。
J20_0600A02: 同年七月傳譽慶秀が八幡正法寺より知恩寺に晉山す
J20_0600A03: るに及びて一層激烈となれり。大永三年遂に敕裁を
J20_0600A04: 仰ぎしに。朝廷には知恩寺の主張を是とし。知恩院
J20_0600A05: を以て知恩寺の別院となすべき敕宣を下したまへ
J20_0600A06: り。於是靑蓮院尊鎭法親王は朝廷に抗議したまひし
J20_0600A07: も。其議の用ゐられざるを以て。高野に隱遁したま
J20_0600A08: ひ。山門の大衆は其敕宣の撤回を囂訴せしにより。
J20_0600A09: 前の敕裁は取消され。兩寺の爭議は依然として繼續
J20_0600A10: し。香衣綸旨は兩寺並に黑谷。淨華院よりも執奏せ
J20_0600A11: り。
J20_0600A12: 天正三年九月廿五日。正親町天皇知恩院浩譽に綸
J20_0600A13: 旨を賜ふ中に。『自今以後門侶の香衣執奏は知恩院に
J20_0600A14: 依らるべく他山よりするものは破毀すべし』との言
J20_0600A15: 葉あり。是を破毀綸旨と稱す。是により多年の本末
J20_0600A16: 問題も略ぼ決定せられたるが如きも。内密には綸旨
J20_0600A17: は他三山よりも尚行はれたり。
J20_0600B18: 德川氏の勃興するに及び。知恩院は超譽以來の關
J20_0600B19: 係を辿り。滿譽は頻りに家康に依賴し。寺域を擴め
J20_0600B20: 伽藍を完備し。剩へ宮門跡を請置せらるるに及び。
J20_0600B21: 全く總本山たるの資格を具備し。一宗に號令するの
J20_0600B22: 形勢をなせり。宮門跡は知恩院の正住職にして。一
J20_0600B23: 宗の門主統領に在せしと雖も。實務は從來の住職即
J20_0600B24: 協住持の取扱ひしことは上に述べし所の如し。增上寺
J20_0600B25: は一宗の總錄所として實權を握りしが。知恩院は總
J20_0600B26: 本山として一宗信仰の中心たり。はた香衣綸旨の執
J20_0600B27: 奏所として名譽の源泉たり。加之第四十三世應譽圓
J20_0600B28: 理が大僧正に任ぜられて以後。代代多く大僧正に任
J20_0600B29: ぜられ緋衣を着して。增上寺と共に一宗最高名譽の
J20_0600B30: 地たりき。又朱印も七百三十石餘を與へられ。三山
J20_0600B31: と同日の比にあらざりしかば。名聞利養遙に三箇山
J20_0600B32: の上にありしなり。
J20_0600B33: 德川時代に於ては。三箇本山中知恩寺は最も冷遇
J20_0600B34: せられたり。朱印の石高を見るに。知恩寺三拾石。

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