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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0567A01: の三四五世たり。靈巖は慶長十年三十二歳にして生
J20_0567A02: 實の法席を相續したるも。故ありて奈良に赴き。靈
J20_0567A03: 巖院を開き之に住す。少時にして生實に歸りたるも
J20_0567A04: 將軍の命に忤ふことあり(其理由は明ならず)。生實を
J20_0567A05: 退き房州に赴く。彼地に於ては大網に大巖院を開
J20_0567A06: き。地方淨土敎の本山となす。盖し生實叢林に擬せ
J20_0567A07: しものならん歟。また上總國佐貫善昌寺。湊宗濟
J20_0567A08: 寺(今湊濟寺)等を開創す。殊に善昌寺は學徒群集し。
J20_0567A09: 一時は一方の叢林をなせしと云ふ。また房總敎化の
J20_0567A10: 餘暇。伊勢國山田に到り靈巖寺を開きしと云ふ。後
J20_0567A11: には將軍の機嫌も柔ぎ。城中法問などある場合には
J20_0567A12: 多く出府して。其員に加はりて縱橫の機鋒を振ひた
J20_0567A13: りしが。寬永元年には江戸京橋の東南に在りし蘆澤
J20_0567A14: を埋めて靈巖寺を創立す。該地は今の靈岸島にして。
J20_0567A15: 寺は明曆の大火に類燒したるを以て。二世珂山之を
J20_0567A16: 深川の今地に移せり。寬永六年十月二十五日知恩院
J20_0567A17: 第三十二代の住持に補せらる。是浩譽。滿譽の生實
J20_0567B18: 系統に屬したる夤縁によること明なり。同十年正月九
J20_0567B19: 日知恩院火を失し。慶長年度再建の大殿諸堂を灰燼
J20_0567B20: し僅に三門經藏を餘すのみ。よりて直に江戸に赴き
J20_0567B21: 幕府に再建を乞ふ。同十三年九月十五日洪鐘を鑄成
J20_0567B22: し。同十六年(或云十八年と)五月再建成り。大殿諸
J20_0567B23: 堂を落慶供養す。其規模壯麗舊に倍せり。之れ現今
J20_0567B24: の堂宇なり。同十八年九月朔日江戸の靈巖寺に寂す。
J20_0567B25: 彼は實に飯沼流。別して道譽流の大成者なりき。道
J20_0567B26: 譽流は生實を本據とすれども。彼が靈巖寺を建て叢
J20_0567B27: 林と成すや。中心は玆に移りて生實は却て其支林た
J20_0567B28: るの觀を呈せり。靈巖寺が道本山と號する洵に所以
J20_0567B29: なきに非ず。
J20_0567B30: 二 感譽流
J20_0567B31: 感譽 諱は存貞。鎭蓮社又願故と號す。相模國小
J20_0567B32: 田原の人にして。北條家臣大道寺某の甥なり。初め
J20_0567B33: は同所傳肇寺に入り出家得度せしが。後江戸に出で
J20_0567B34: 增上寺杲譽天啓に受業嗣法す。成業ののち師跡傳肇

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