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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0556A01: あり。就中糅鈔。直牒。頌義は最も精力を費したる
J20_0556A02: 著述にして。頌義は名目とともに德川時代檀林學の
J20_0556A03: 敎科書として非常に尊重せられたり。
J20_0556A04: 門下數人あり。就中了智は瓜連を相續し。聖聰
J20_0556A05: は增上寺を開創したりしが。他は餘り聞ゆる所な
J20_0556A06: し。
J20_0556A07: 二 聖聰の繼承
J20_0556A08: 聖冏は講學著作に忙はしく。從つて門弟の見るべ
J20_0556A09: きもの衆からず。瓜連の法席を相續せる明譽了智
J20_0556A10: も。大原談義十二通一卷を作り。常福寺の燒跡を經
J20_0556A11: 營し。阿彌陀山に不輕山高仙寺をひらきたりと云ふ
J20_0556A12: ことの外。事業の見るべきものなく。有譽明貞に貞
J20_0556A13: 傳集一部ありて。多少傳法に關する史實をあたふる
J20_0556A14: も。一宗の大勢に關しては何等寄與するところある
J20_0556A15: を見ず。獨り酉譽聖聰あり。冏師が口に筆に大に主
J20_0556A16: 張したりし所を。實際に施し本宗の獨立擴張に向て
J20_0556A17: 努力したり。
J20_0556B18: 聖聰は大蓮社酉譽と號し。後世宗徒尊んで酉師と
J20_0556B19: 稱す。千葉氏胤の息にして。貞治五年七月十日千葉
J20_0556B20: 城に生る。至德二年二月二十歳にして始めて冏師に
J20_0556B21: 橫曾根の談所に謁し本宗に歸す。一説によれば是
J20_0556B22: より先眞言宗千葉寺に入りて出家し。かの宗の敎相
J20_0556B23: 事相の法門に於て造詣する所深かりしかども。父兄
J20_0556B24: が冏師に歸依し屢屢其所領に請して法門を聽聞せし
J20_0556B25: を以て。かれも直接間接に淨土の法門を聞きて。漸
J20_0556B26: 次往生淨土の法門に心を傾けつつありしが。機縁玆
J20_0556B27: に醇熟して全く言家を棄てて本宗に歸入し。冏師と
J20_0556B28: 師資の約を締せしなりと。入門幾もなく頌義本末三
J20_0556B29: 十一卷の書を授けられ。爾來常隨給事して法要を諮
J20_0556B30: 禀すること九年。明德四年十二月五重宗脉を授與せ
J20_0556B31: らる。
J20_0556B32: 五重相傳を受けたる同年に。師の座下を辞して武
J20_0556B33: 藏國豐島郡貝塚(今麴町區紀尾井町邊)に赴き。一寺
J20_0556B34: を開創して叢林と成す增上寺これなり。一説によれ

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