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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0554A01: 蓮勝並に定慧に就き。末山本山兩傳を具承せりとの
J20_0554A02: 傳説あることを述べしが。其には多少疑なきにあらざ
J20_0554A03: るも。聖冏が末山傳に本山傳を加へ。兩傳を具備せる
J20_0554A04: ことに關しては疑ふべからず。定慧の會下に留ること數
J20_0554A05: 年にして宗義に精通せしが。隨他扶宗の爲には佛敎
J20_0554A06: 各宗の敎義は勿論異道俗典も該博するの必要あり。
J20_0554A07: 因りて諸處を遍歷して。各宗の碩學斯道大家の門を
J20_0554A08: 敲き其の蘊奧を研尋せり。即同國小松村法幢院祐存
J20_0554A09: に從ひ密敎の祕訣を聽き。眞源法印に就き天台六十
J20_0554A10: 卷を研究し。但馬國大明寺月菴宗光茂古林派月察天
J20_0554A11: 命の二和尚に參して禪旨を聞き。倶舍唯識等は下野
J20_0554A12: 國宇都宮塙田の明哲に學ぶ。且同國芳賀郡大羽山往
J20_0554A13: 生寺の南瀧房に寄寓して大藏經を披閲す。神道の深
J20_0554A14: 祕は治部大輔某に聞き。和歌正風は頓阿法師に學
J20_0554A15: ぶ。かくて四方に遊學すること前後十三年に及び。内
J20_0554A16: 外の諸學貫練博綜し欝として大家を成したるを以
J20_0554A17: て。永和四年瓜連に歸り了實に謁す。了實喜び迎へ
J20_0554B18: て璽書を授け。且つ自ら老齡職に堪へざるを以て代
J20_0554B19: りて瓜連の事務を管掌せんことを勸めしが。前に遊學
J20_0554B20: 中一時帶留せし野州尾羽(今大庭)山南瀧房主との約
J20_0554B21: 束ありしを以て。再彼地に赴き宗旨を弘通し。老若
J20_0554B22: を攝化す。此に居ること五年なりしが。永德三年四十三
J20_0554B23: 歳にして千葉氏胤(或は貞胤)の請に應じて其の城下
J20_0554B24: に赴き。明見寺(通稱千葉寺眞言宗に屬す)に寓し法
J20_0554B25: 雷を震ふ。時に氏胤の息德壽丸師の道風を慕ひ出家
J20_0554B26: 入門し聖聰と號す。其後下總國(今下野)北相馬郡(今
J20_0554B27: 結城)橫曾根に菴居して學徒を敎養す。之を橫曾根
J20_0554B28: 談所と稱し。後世檀林の沿源とす。至德二年此に於
J20_0554B29: て二藏頌義本末卅一卷を著し之を聖聰に授く。翌三
J20_0554B30: 年瓜連に歸り老師を省す。了實悅びて瓜連の法席を
J20_0554B31: 讓り代りて衆を領せしむ。同年十一月三日了實入寂
J20_0554B32: す。翌嘉慶元年淨土傳戒論を著し本宗圓頓戒の正脈
J20_0554B33: を指示し。嘉慶二年本宗傳法十八通を輯錄し列祖相
J20_0554B34: 承の正宗を發揮す。同年二月廿一日〓福寺類燒の厄

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