ウィンドウを閉じる

J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0549A01: はず。鎌倉は聖滿の後。順譽了專。常譽良吽。聖譽慶
J20_0549A02: 順と師資相繼ぎ。觀譽祐崇に至る。慶順には諸記類聚
J20_0549A03: の著あり。簡單の書なれども有力なる史料たるを失
J20_0549A04: はず。佐介谷悟眞寺が材木座の今地に移轉し。光明
J20_0549A05: 寺と改められしは。恐らく祐崇時代のことなるべ
J20_0549A06: く。而して祐崇は光明寺を恢宏し。關東總本山の規
J20_0549A07: 模を整備したる人なり。即ち明應四年敕召により上
J20_0549A08: 洛し。淸凉殿に宗要を上講し。恩賞として眞如堂の
J20_0549A09: 引聲念佛を鎌倉に移し修することを許さる。これ本
J20_0549A10: 宗十夜法要の濫觴をなせり又光明寺に敕願所關東總
J20_0549A11: 本山の號を賜ふ。彼また上總國木更津選擇寺。武藏
J20_0549A12: 國品川願行寺。駿河國府中龍泉寺(後德川家の菩提
J20_0549A13: 所となり寶臺院と改む)。同國江尻江淨寺等諸處に
J20_0549A14: 伽藍を開創し。また著作の書數部ありて。敎義と實
J20_0549A15: 行兩方面に於て宗光を闡揚するに與りて力ありき。
J20_0549A16: 祐崇の法嗣並に其法統には注目すべき人物鮮から
J20_0549A17: ず。其法流を酌む者にして最著名なるは牛秀。幡隨
J20_0549B18: 意なり。牛秀は讚譽と號し。祐崇の弟子智聰の法孫
J20_0549B19: にして。忍譽貞安の資なり。川越に赴き感譽に嗣法
J20_0549B20: し。天正十三年。武藏國瀧山に大善寺を開く。之れ
J20_0549B21: 瀧山檀林の起原なり。大善寺建立には。慈根寺城主
J20_0549B22: 北條氏照の賛助與りて力ありしかば。幾もなく之を
J20_0549B23: 慈根寺城下に移し。四方より學徒の集るもの甚多か
J20_0549B24: りしが。天正十八年小田原北條氏の敗亡するや。氏
J20_0549B25: 照も之に參加して自殺し。慈根寺並大善寺も。前田
J20_0549B26: 上杉等の燒毀する所となるによりて。更に之を八王
J20_0549B27: 子の現地に移轉す。幡隨意は智譽と號し。智聰の弟子
J20_0549B28: 然譽禪芳の法孫たり。始め禪芳の弟子範譽義順に就
J20_0549B29: き出家得度せしが。後に其法弟奉譽聖傳に從ひ嗣法
J20_0549B30: し。更に璽書を川越感譽に受けたりと云ふ。成業後
J20_0549B31: 武藏國幡羅郡熊谷寺を再興し之に住し。天正十九年
J20_0549B32: 上野國館林に善導寺を開く。檀主は城主榊原康政な
J20_0549B33: り。或は云ふ此寺は寂慧良曉の創立にかかり。館林
J20_0549B34: の東北外加法師村に在りしを。幡隨意が再建したる

ウィンドウを閉じる