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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0548A01: 諸宗の學を研覈し。又西山九品寺等の淨土の異流を
J20_0548A02: も受學せしが。後鎌倉に來り良曉に謁し。又定慧に
J20_0548A03: 師事し宗要を聽き。文保元年支那に赴き。廬山に登
J20_0548A04: り優曇普度に就きて。慧遠の宗風を傳へ。元亨元年
J20_0548A05: 歸朝して堺に旭蓮社を開き。廬山風の淨敎を敷く。
J20_0548A06: 嚮に二祖門下に宗圓ありて蓮社の宗風を傳へたる
J20_0548A07: が。此に至りて再び輸入せられ。廬山流の淨土敎は
J20_0548A08: 本宗に少からざる影響を與へたることと想像せらる。
J20_0548A09: 應安五年七月廿五日寂す。壽九十有餘。著す所夢中
J20_0548A10: 松風論十卷。及附錄一卷。淨土十勝論十四卷。同輔助
J20_0548A11: 集五卷。驚覺論三卷。獅子伏象論六卷等あり。其他
J20_0548A12: 酉願は業成記一卷を造り。盛蓮は始め尊觀に從ひ後
J20_0548A13: 良曉に歸し。領解業成圖一卷を造りたりと傳へらる
J20_0548A14: (述聞口決鈔上)。然れども智演以外に左程注意すべ
J20_0548A15: き人物なかりしが如し。
J20_0548A16: 定慧は佛蓮社良譽と號す。本宗譽號の嚆矢なり。
J20_0548A17: 嘉曆三年良曉の寂後は。鎌倉箕田の祖跡に宗光を闡
J20_0548B18: 揚せしが。就中箕田の興隆に努め。又多く箕田に住
J20_0548B19: せしと見え。箕田定慧上人の稱あり。文和以降鎌倉
J20_0548B20: 及箕田の幹事を高弟聖滿に托して。相州足柄郡桑原
J20_0548B21: 郷に退き淨業を專修す。世に之を桑原道場と稱し。
J20_0548B22: 其跡今淨蓮寺と號す。延文四年七月十八日。述聞口
J20_0548B23: 決鈔二卷を作り。述聞鈔の意を敷演し。之を聖冏に
J20_0548B24: 授く。聖冏は康安元年十月七日。私の勘文を附して
J20_0548B25: 之を後世に貽せり。應安三年十二月二十六日七十五
J20_0548B26: 歳を以て箕田に入寂し。其近郷松岡山中に埋葬す。
J20_0548B27: 塔を鎌倉及桑原に置く。
J20_0548B28: 定慧寂後。聖滿鎌倉箕田の兩席を兼帶せり。聖滿
J20_0548B29: 圓蓮社と號し。良順は其字なり。應永十六年五月廿
J20_0548B30: 六日入寂す。聖滿滅後。箕田は酉性良意之を相續せ
J20_0548B31: しが。永享元年九月十一日。良意入滅以後適當なる
J20_0548B32: 相續者を得ずして眞言宗に屬す。故に總譽淸巖が天
J20_0548B33: 正中興には。箕田の南半里鴻巢に寺地を求めたり。
J20_0548B34: 故に後世鴻巢勝願寺と稱して。又箕田或は松岡と云

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