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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0546A01: 徴するに。登山以前既に師弟の契約ありて。ただ其
J20_0546A02: 時代の風に從ひ登山受戒せしに他ならざりしが如
J20_0546A03: し。爾來鎌倉に在りて。天台の學は雪下に住せし山
J20_0546A04: 僧觀學得業に受け。淨土の宗要は三祖の凾仗に侍し
J20_0546A05: て幽微を窮めたり。文永九年二十二歳にして。鎌倉
J20_0546A06: 悟眞寺の房地及免田。武州鳩井庄の讓券を受け。且
J20_0546A07: 宗義相承の秘訣を授けられ。建治二年九月三祖上洛
J20_0546A08: の際。強ひて隨從せんとせしも。同門並に信徒の切
J20_0546A09: 諫により。鎌倉に留り師に代りて衆徒を領し。弘安
J20_0546A10: 九年三祖鎌倉に還るや。傳戒の證衣宗脈の璽書を賜
J20_0546A11: はり。同十年七月三祖入寂せらるるや。悟眞寺並に
J20_0546A12: 箕田勝願寺を兼職し。淨土宗正統の貫主となる。
J20_0546A13: 良曉の主なる居所は。固より鎌倉佐介谷悟眞寺及
J20_0546A14: 箕田勝願寺なりしも。又其他諸所に寄寓留錫せしが
J20_0546A15: 如し。即鎌倉坂下。甲州遲澤。下總海上郡船木稱名
J20_0546A16: 寺。相州白旗郷等是なり。正應三年(三祖滅後四年)
J20_0546A17: 十二月廿日。三祖門弟實道房は。三祖が文永十一年
J20_0546B18: 十一月十日に自筆せられたる文書を佐介谷に發見
J20_0546B19: す。是れ三心業成前後の問題を解決すべき究竟の材
J20_0546B20: 料なり。於是尊觀の主張により。日を期して良曉の
J20_0546B21: 佐介住坊に門人を會し。諍議を決せんとし。定日尊
J20_0546B22: 觀。實道・大淵・良曉等相會し。先の自筆狀を出し
J20_0546B23: て之を讀上げしに。孰れも白旗正義に承伏したりし
J20_0546B24: が。翌日に至り尊觀は先の決議を破り。再會を請求
J20_0546B25: せるにより。前の人人皆再び集りしが。尊觀の主張
J20_0546B26: 不條理なりしが故に。議合はずして別れたりと云ふ
J20_0546B27: (述聞口決鈔上)。嘉元二年決疑鈔見聞五卷を著す。世
J20_0546B28: に之を白旗見聞。或は坂下見聞と云ふ。延慶三年六
J20_0546B29: 十歳甲州遲澤草菴に僑居し。傳通記見聞十卷を著し。
J20_0546B30: 同年十二月二日著手し正和元年に功を竣ふ。よりて
J20_0546B31: 門人之を遲澤鈔と云ふ。正和二年千葉の支族船木中
J20_0546B32: 務禪門の請に應じ。下總國海上郡船木郷に赴き稱名
J20_0546B33: 寺に住し。宗義を講敷す。講餘口傳鈔一卷を造りて
J20_0546B34: 相承の正義を述ぶ。禪門寫し取りて之を名越尊觀の

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