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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0543A01: り。於是淨土門に歸し。又向阿の遺跡淨華院に至
J20_0543A02: り。定玄に謁して宗要を受く。應永十一年三十六歳
J20_0543A03: の冬。郷里金勝山に隱遁し。淨嚴坊を營み念佛を事
J20_0543A04: とす。應永廿六年三部假名抄を彫刻し世に流布す。
J20_0543A05: 別に念佛安心大要。稱名念佛奇特現證集。十王修善
J20_0543A06: 抄等の著述ありて世に行る。寶德元年十二月十二日。
J20_0543A07: 八十一歳を以て寂す。隆堯の後堯譽隆阿あり。淨嚴
J20_0543A08: 坊を相續せしが。後又知恩院に住して第十九世たり
J20_0543A09: しことあり。文明十三年九月七日。淨嚴坊に寂す。年
J20_0543A10: 六十九なり。隆阿の弟子に嚴譽宗眞あり。文明十八
J20_0543A11: 年淨嚴坊を擴張修築して巨刹となし。金勝山淨嚴院
J20_0543A12: 阿彌陀寺と號す。其他國内に寺院を開起すること甚多
J20_0543A13: く。地方に於ける感化著大にして。門弟數千餘に及
J20_0543A14: びしと云ふ。永正十五年十二月廿九日寂す。其後阿
J20_0543A15: 彌陀寺は。第八世應譽明感に至りて。信長の歸依す
J20_0543A16: る所となり。安土に淨嚴院を造營し。天正五年彼地
J20_0543A17: に移轉せしが。後舊地に阿彌陀寺を起せり。
J20_0543B18: 等熈字は僧任。萬里小路嗣房の息なり。應永十三
J20_0543B19: 年十一歳にして定玄の門に入る。二十三歳にして叡
J20_0543B20: 山に登り台學を窮め。更に南都に遊び法相三論を學
J20_0543B21: び。應永三十年松林院及淸淨華院を兼管す。主上。
J20_0543B22: 將軍等の歸仰甚厚く。文安三年正月十一日。特に佛
J20_0543B23: 立慧照國師の敕號を賜ふ。是より先。永享二年の
J20_0543B24: 頃。叡山西塔黑谷の祖跡が。山僧の壓迫により衰微
J20_0543B25: せるを中山の北溪に移し。幕府に請ひて規模を開創
J20_0543B26: す。是新黑谷金戒光明寺なり。寬正三年六月十一日
J20_0543B27: 六十六歳を以て寂す。
J20_0543B28: かく京都四本山中。淨華院。金戒光明寺は。足利
J20_0543B29: 末葉に至るまでは。禮阿の法統の支配する所なりし
J20_0543B30: が。元龜天正の頃。道殘の兩山を管するに及び。一
J20_0543B31: 條派は名越派に壓せられたるも。名越派も道殘一世
J20_0543B32: に過ぎずして。其後は正統の配下に歸するに至れ
J20_0543B33: り。
J20_0543B34: 五 木幡派

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