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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0540A01: 九年洛東三條に悟眞寺を開創して。所承を弘通せし
J20_0540A02: により。三條派の稱あり。同十一年十二月。漢語燈
J20_0540A03: 錄十卷。同拾遺十卷を輯錄し。翌年二月。和語燈錄
J20_0540A04: 五卷。同拾遺二卷を輯錄して。宗祖一代の講説。手
J20_0540A05: 記の漢和文。一切の文章を網羅す。後世に至るま
J20_0540A06: で。宗祖の著述が散逸の厄を免れしは。偏に彼の輯
J20_0540A07: 集の結果なることを思へば。彼の功績は偉大なりと云
J20_0540A08: はざるべからず。弘安七年十二月。二祖別傳を。同
J20_0540A09: 十年八月。三祖別傳を編す。又慈心の勸請により。
J20_0540A10: 永仁三年四月廿五日より翌年正月十三日に至る間
J20_0540A11: に。無量壽經鈔七卷を起稿し。同五年二月。彼慈心
J20_0540A12: 禮阿と相會して。此書に就き問難往復して漸く之を
J20_0540A13: 治定す。永仁四年五月。選擇集大綱鈔三卷を作り。
J20_0540A14: 元亨二年十月。新扶選擇報恩集二卷。扶選擇正輪通
J20_0540A15: 義一卷を著し。中道寺覺性に繼ぎ。明惠上人摧邪輪
J20_0540A16: 及莊嚴記を反駁す。又花園天皇の四十八條の勅問に
J20_0540A17: 對し。尊問愚答記を撰進せりと云ふ。此外天台戒疏
J20_0540B18: 見聞八卷。往生拾因私記二卷等あり。
J20_0540B19: 道光は。宗要を三祖に禀承せりと雖も。圓頓戒は
J20_0540B20: 他より之を禀傳せり。即戒疏見聞の序によるに。彼
J20_0540B21: は弘安三年四月十七日より一夏の間。京都六條萬壽
J20_0540B22: 寺方丈覺空に就き。天台戒疏の講義を聽き。同七年
J20_0540B23: 七月廿九日。萬壽寺方丈佛前に圓頓戒を受得せり。
J20_0540B24: 而して覺空は建仁寺第八世長老圓琳に就き圓頓戒
J20_0540B25: を受け。圓琳は又建久元年八月。戒疏私記。戒儀等
J20_0540B26: を叡山寶地房證眞に受け。建保二年三月。泉涌寺我
J20_0540B27: 禪律德に就き戒疏を受學したる人なり。覺空は又正
J20_0540B28: 信房湛空を二尊院に訪ひ。湛空が宗祖より傳受せし
J20_0540B29: 圓頓戒の血脉を授けたりと云へば。其系統が一部宗
J20_0540B30: 祖に關係あるは事實なるも。二祖三祖には全く無關
J20_0540B31: 係たりしなり。
J20_0540B32: 元德二年三月廿九日。八十八歳を以て寂す。後醍
J20_0540B33: 醐天皇廣濟和尚の諡號を賜ひしと云ふ。悟眞寺に塔
J20_0540B34: を立てしが。寺は兵燹に罹り四條北大宮西に移り。

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