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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0538A01: の第八世敬法の資とせられ。寺又淨華院の末院なり
J20_0538A02: しが。其良字は名越の良號に何等かの關係を有せざ
J20_0538A03: りしか疑なきに非ず。若し關係ありとせば道殘が西
J20_0538A04: 福寺に住職せるも偶然にあらずと云ふべし。遮莫彼
J20_0538A05: は西福寺を中興し。寺觀を改めたるが。專譽良休の
J20_0538A06: 後を襲ひ淨華院に晋山し第三十二世と成る。是より
J20_0538A07: 先。黑谷は常に淨華院の兼帶するところなりしを以
J20_0538A08: て。彼も亦これを兼管せしが。其の間に黑谷の規模
J20_0538A09: を擴張して。今の金戒光明寺の基を開き。西福寺を
J20_0538A10: 始め從來淨華院の末寺たりしものを黑谷に移したる
J20_0538A11: こと多きを以て。黑谷に於ては大に之を德とするも。
J20_0538A12: 淨華院に於ては『山荒の道殘』と稱して憎惡せられた
J20_0538A13: りと云ふ。彼はかく檀興の能手たりしのみならず。
J20_0538A14: 又學問にも長じ。和風安心鈔一卷の作あり。文祿二
J20_0538A15: 年九月廿三日寂す。
J20_0538A16: 理本六代の法孫に仰觀良大あり。專稱寺六世とし
J20_0538A17: て該寺を中興し。敕願所の綸旨を拜し。名越派本山
J20_0538B18: たらしめたること前に之を記せしが。其四代の法孫に
J20_0538B19: 袋中あり。天蓮社良定と號し。奧州菊多郡岩岡(磐
J20_0538B20: 城國石城郡磐崎村)佐藤修理亮定衡の子にして。光
J20_0538B21: 明院以八上人の同母弟なりと云ふ。幼にして西郷
J20_0538B22: (磐崎村の内)能滿寺に入り。存洞に就きて出家し。
J20_0538B23: 如來寺。專稱寺。圓通寺等の諸檀林に遊學し。二十三
J20_0538B24: 歳の時。大澤檀林に宗徒敎養の任務を托せられ。學
J20_0538B25: 徒敎養の傍ら古記錄の蒐集整理に盡力せり。後世古
J20_0538B26: 書祕錄。宗門口決故實。藤田傳法等を圓通寺に傳え
J20_0538B27: たるには彼の勞與りて大なり。二十五歳江戸增上寺
J20_0538B28: に遊び白旗の正傳を相承し。次で良鄭に嗣法して成
J20_0538B29: 德寺第十三世と成る。又奧州に於ては菩提院等の寺
J20_0538B30: 院を開きしが。五十二歳の時渡支の大志を懷き西行
J20_0538B31: せしも。時恰も支那に騷亂ありて渡航をえざりしか
J20_0538B32: ば。南航して琉球に至り。城外桂林寺に宿し留ること
J20_0538B33: 三箇年なりしが。其間國主の請により琉球神道記。
J20_0538B34: 琉球往來記を製す。慶長十六年六十歳にして京都に

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