ウィンドウを閉じる

J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0533A01: りては未だ百萬遍五代の住持が藤田派に關係ある確
J20_0533A02: 説をえざるも。五人承繼の關係と。岌州によりて藤
J20_0533A03: 田派の關係事實を略想像せしむるに足るものなり。
J20_0533A04: 又岌長は。天文三年尾張國中島郡刈安賀鎭西寺を
J20_0533A05: 開きたりと云へば。尾張より越後に轉じ。更に京都
J20_0533A06: に移りしが如し。而して岌淸といふ人あり。天文九
J20_0533A07: 年尾張國海東郡葉苅長福寺を開き。同年中同國同郡
J20_0533A08: 蛭間大德寺を開き。岌潜と云ふ人。天文九年同國同郡
J20_0533A09: 宇治光明寺を開きたりと傳ふるを見れば。此等も岌
J20_0533A10: 長に關係ありしことを想像しうべし。又天正文祿の
J20_0533A11: 交。岌徃あり。甲斐信濃に於て數箇寺を開創せり。
J20_0533A12: 即甲斐國西山梨郡里垣村歸命院(天正十八年)。同國
J20_0533A13: 東八代郡錦村西念寺。同國同郡淸野村瑞蓮寺(天正
J20_0533A14: 九年)。信濃國北佐久郡岩村田町西念寺(天正八年)。
J20_0533A15: 同國諏訪郡四賀村稱故院(文祿二年)。同郡米澤村鹽
J20_0533A16: 澤寺(天正五年)。同郡北山村泉澁院(天正年中)。同
J20_0533A17: 國上伊那郡高遠滿光寺(天正元年)。同郡伊那富村長
J20_0533B18: 久寺(天正十年)等是なり。其他奧州越後には岌字を
J20_0533B19: 冠する人を開山とする寺院甚多し。
J20_0533B20: 以上の事實を綜合して考ふるに。天文より文祿慶
J20_0533B21: 長に亙り。奧州・越後・信濃・甲斐・三河・尾張等
J20_0533B22: の諸國には。藤田或は藤田名越混合の法系非常に繁
J20_0533B23: 茂し其勢力も餘程強大なりしが如し。而し岌翁。岌
J20_0533B24: 長が敕請により百萬遍に住せしが如きも。全く其結
J20_0533B25: 果ならずんばあらず。然れども德川時代に至り。奧
J20_0533B26: 羽に於けるものは名越に吸收せられ。其他は正統白
J20_0533B27: 旗に併合せられたり。
J20_0533B28: 二 名越派
J20_0533B29: 派祖尊觀は。字を良辨と云ひ。父は北條義時の次
J20_0533B30: 男名越遠江守朝時にして。延應元年下總國香取郡鏑
J20_0533B31: 木村に誕生せりと云ふ。而して少時三祖門下に入り
J20_0533B32: しと云へば。恐らく三祖が下總在住の頃なるべし。
J20_0533B33: 後常に隨從して宗要を受學したりしが。鎌倉に於て
J20_0533B34: は名越谷に居住し。此に善導寺を開き其所承の法を

ウィンドウを閉じる