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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0532A01: 龍福寺を開き。感誓(或は感生に作る)は貞治年中
J20_0532A02: 奧州會津津川新善光寺を開けり。此寺五世梅岌に至
J20_0532A03: りて非常に繁昌し。境内廣闊伽藍完備したりしが。
J20_0532A04: 永正年間兵燹に罹り寺領を掠められ衰微せるも。德
J20_0532A05: 川初期に於て尚地方の中本寺たりしことは寺記の示す
J20_0532A06: 所なり。理覺の門下良岌あり。下總國大野正定寺。
J20_0532A07: 奧州田村郡三春紫雲寺。信夫郡松川村常念寺。安積
J20_0532A08: 郡郡山善導寺。岩瀨郡須賀川十念寺。岩城郡下小川
J20_0532A09: 遍照寺等を開く。其弟子に岌傳あり。初は土塔に住
J20_0532A10: し。後會津黑河郷に隱遁す。其下に岌天あり。會津
J20_0532A11: 高巖寺を開き。天文六年九月廿八日に寂す。
J20_0532A12: 百萬遍知恩寺の住職には。第廿七世岌翁以下岌長。
J20_0532A13: 岌善。岌州。岌興あり。岌翁は天文十二年。岌長は天
J20_0532A14: 文廿二年共に越後高田善導寺より晋山し。岌州は石
J20_0532A15: 州銀山極樂寺より。或は悟眞寺より入院せりと云ひ。
J20_0532A16: 岌興は天文十三年越前西方寺より入院せるよしを。
J20_0532A17: 同寺歷志略に載せて。此等五人の師弟關係に就て云
J20_0532B18: ふ所なしと雖も。共に岌字を冠するを見れば。必ず
J20_0532B19: 其間に法脉關係あるのみならず。又良岌以下の人人。
J20_0532B20: 或は其他の藤田派の人に關係あるを想像せしむるの
J20_0532B21: みならず。彼の東蒲原郡津川新善光寺の繁昌と共に。
J20_0532B22: 藤田派の越後に蔓延し。全國に同派の寺院勃興した
J20_0532B23: るが故に。善導寺も其勢力範圍にありて。翁長二師
J20_0532B24: も其流を汲める人なるを推想すべく。就中岌州が元
J20_0532B25: 龜三年頃まで堺旭蓮社に住し。藤田派の傳書を護持
J20_0532B26: したることは。決答受決鈔の奧書の明示する所なり。新
J20_0532B27: 撰往生傳第三岌州傳には。註に按入會津高巖寺開山
J20_0532B28: 岌天上人之室剃染乎冠岌字之故可思之と云ひ。
J20_0532B29: 次に後登洛長德山禀敎嗣法貫首岌長公第廿八世號天蓮社第廿
J20_0532B30: 七世心蓮社岌翁公之資と云ふ。前者は岌字より來れる想像説なる
J20_0532B31: も。後者は何かの根據あるべし。同傳は又岌善岌州の
J20_0532B32: 順序を顚倒し。又岌州が晩歳泉州堺旭蓮社に住せし
J20_0532B33: ことを記するも。事實に錯誤あること。前の元龜三年彼
J20_0532B34: が旭蓮社に在りし事實により知るべし。新撰傳によ

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