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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0526A01: る所なり。是盖三祖の活動は極めて質素着實にして。
J20_0526A02: 名聞を求むるに冷淡なりしが故に。世間の注意を惹
J20_0526A03: くなかりしによることならん。即大佛谷。佐介谷等
J20_0526A04: の草菴に蟄居して。念佛の餘暇。祖典の講義及之が
J20_0526A05: 註釋書の述作を事とし。前陳諸師の如く。世間的活
J20_0526A06: 動を試らるること少かりしは。其名の當時に知られ
J20_0526A07: ざりし重なる理由なるべし。
J20_0526A08: (四) 足立及京都
J20_0526A09: 三祖は法相宗並に傍出淨土敎の師たる南都興福寺
J20_0526A10: 勝願院良遍僧都報恩の爲に。武藏國足立郡箕田の地
J20_0526A11: に一宇を建立し勝願寺と號す。何故にかかる地に之
J20_0526A12: を創建せしかは不明なるも。光明寺傳には北條經時
J20_0526A13: 寄附武州安達郡内箕田郷以爲寺領充行三寶衆供
J20_0526A14: 養于時武州二四郡爲經時私領とあり。經時が寄
J20_0526A15: 附したりとの記事には疑あるも。何人かの寄附に
J20_0526A16: より此地が三祖の領有に屬したるを以て。玆に道場
J20_0526A17: を營み講肆としたるものの如し。而して勝願寺營建
J20_0526B18: の事實が何年頃にありしかは不明なり。寺傳には建
J20_0526B19: 長三四年頃とし。或は建長四年とするも。當時は下總
J20_0526B20: に在住なりしこと上述の如くなれば信ずべからず。諸
J20_0526B21: 記類聚に。觀經疏足立鈔に關して。聞書曰師云足立
J20_0526B22: 文永御談義聞書也諍忍房口筆也の記事あり。足立に
J20_0526B23: 於て談義の聞書なるが故に足立鈔と云ふ。然るに足
J20_0526B24: 立とは武藏足立郡のことにして。足立郡に於ける三祖
J20_0526B25: の舊跡は箕田に他ならざれば。文永年中箕田に在住
J20_0526B26: せられしと云はざるべからず。然らば足立の傳道は
J20_0526B27: 鎌倉移住以後のことに屬し。恐らくは鎌倉と此地とを
J20_0526B28: 往復談義せしなるべし。寶治二年淨意尼の懇請を辞
J20_0526B29: し。再會を約して東國遊化の路程に就きしより。信
J20_0526B30: 濃。兩總。相武諸處の敎化談義に星霜は意外に遷り
J20_0526B31: ぬ。淨意尼は既に故人となり再會の約果すに由なか
J20_0526B32: りしも。祖山の風物も慕はしく一蓮の友も懷かしき
J20_0526B33: に加へて。關東に受學し今は京都にある禮阿。慈心等
J20_0526B34: の弟子の懇請あり。建治二年九月。二十九年目に再び

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