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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0525A01: るが如し。而して此無常堂の菴室より佐介谷悟眞寺
J20_0525A02: に移住したるか。或は佐佐目谷は佐介谷の中に於け
J20_0525A03: る地名なりしと云へば。無常堂の菴室が後に悟眞寺
J20_0525A04: と改められしかは不明なるも。弘安十年入寂に至る
J20_0525A05: までは概ね玆に居住せるが如し。傳には初住大佛谷
J20_0525A06: 後住悟眞寺在佐介谷として。無常堂菴居のことを記さず。是
J20_0525A07: れ傳文簡單にして無常堂菴居を略したりとも。又無
J20_0525A08: 常堂菴居即悟眞寺と解せられざるにもあらず。とに
J20_0525A09: かく佐介谷の住居は悟眞寺と號し。建治元年傳通記
J20_0525A10: の再治は此寺に於てせられたること。同記跋文に見
J20_0525A11: え。弘安十年入寂も此寺なりしこと傳に示す所なる
J20_0525A12: も。糅鈔四十八卷には。此寺後に蓮華寺と改め。其檀
J20_0525A13: 那は大佛殿なりし由を記す。大佛殿は北條時房の三
J20_0525A14: 子朝直の系統大佛谷に住せしが故に此稱あり。然ら
J20_0525A15: ば經時は其檀主ならざりしことを知るべし。此蓮華寺
J20_0525A16: は後更に光明寺と改め。佐介谷より今の材木座に移
J20_0525A17: 轉せしものなるも。其改稱移轉の年代は不明なり。
J20_0525B18: 下總に於ける三舊跡の二箇寺迄光明寺と號すること。
J20_0525B19: 及筑後善導寺の本名が光明寺なりしことを合せ考ふる
J20_0525B20: に。悟眞寺も三祖在世より光明寺の別號を有し。後
J20_0525B21: に至り別號が本稱と成りしに非るか。尚鎌倉に於て
J20_0525B22: は極樂寺内にも住せられしとの傳説あるも。何年頃
J20_0525B23: なりしかは明ならず。又石川禪門の館には屢屢往訪
J20_0525B24: せられ。門弟等も時時行き。禪門存生中は勿論。卒
J20_0525B25: 後にも子孫其遺命により薪炭を供給したりと云ふ。
J20_0525B26: 鎌倉在住中に於ける三祖の活動に關して史實の示す
J20_0525B27: 所は甚少し。當時鎌倉に於て活動せし傑僧には。建
J20_0525B28: 長寺開山大覺禪師道隆。極樂寺中興忍性菩薩良觀。
J20_0525B29: 圓覺寺開山佛光禪師祖元。日蓮上人の四人なり。此
J20_0525B30: 等の人人は熟れも三祖よりは十歳以上の弱齡なりし
J20_0525B31: によることならんも。三祖が彼等と交涉關係せられた
J20_0525B32: る事實なく。日蓮上人の如き道隆。忍性の兩師に對し
J20_0525B33: ては。猛烈に攻擊の戟を向けつつあるも。三祖に向
J20_0525B34: ひては片言隻句言及する所なし。是甚怪訝に堪へざ

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