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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0523A01: 訟依此人爲學者亦請之爲同聞衆領解并聞書等同
J20_0523A02: 誂此人此人聞之忽以發心捨世間訴訟即附安樂房
J20_0523A03: 永成上人門徒畢とあり。安樂遊化の年月は不明な
J20_0523A04: るも。其建永二年以前なること言までもなし。是によ
J20_0523A05: りて見るに。石河道辨(澁谷道遍と同異可考)。石垣
J20_0523A06: 金光房が淨土宗に入れるは。彼が鎌倉敎化の結果の
J20_0523A07: 一なりしこと明なり。
J20_0523A08: 宗祖滅後十六年。嘉祿三年七月廿五日。入道行然
J20_0523A09: 二位禪尼追福の爲に梵宇を建立し。其慶讚導師とし
J20_0523A10: て聖覺法印を請す。聖覺其請に應じて鎌倉に法雷を
J20_0523A11: 震ふ。其表白花を餝り。啓白玉を貫き。聽聞の尊卑
J20_0523A12: 隨喜渴仰せりと云ふ。法印は宗祖在世の時。常に宗
J20_0523A13: 祖に隨行し。諸處に唱導開説して。宗祖の化導を翼
J20_0523A14: 賛したる人。此時鎌倉に於ける唱導の結果が僅少な
J20_0523A15: らざりしこと想像に餘あり。法印は其後直に歸京した
J20_0523A16: るか。或は尚暫く鎌倉に滯在して敎化を續けたるか
J20_0523A17: 不明なるも。法印下鎌間もなく。隆寬律師も。念佛
J20_0523B18: 者の首魁として陸奧國に流罪の宣旨を蒙り。鎌倉に
J20_0523B19: 下向し。毛利入道西阿の好意により。弟子實成房を
J20_0523B20: 陸奧國に遣し。自身は西阿の領地相模飯山に居住
J20_0523B21: し。此年の暮同地に入寂せしが。鎌倉にも暫く居住
J20_0523B22: し。多少在鎌の關東武士を攝化せしやも知るべから
J20_0523B23: ず。加之律師の上足智慶。隆慶相繼ぎて鎌倉に師説
J20_0523B24: を弘通し。眞言の碩德にして律師淨門弟子たる願行
J20_0523B25: 上人も。名越安養院を開き律師の義を弘通し。律師
J20_0523B26: 弟子蓮念相次で安養院第二世として。師風を闡揚し
J20_0523B27: たりと云ひ。又初め律師の門下なりしが。後法蓮房
J20_0523B28: 信空の弟子となりし。敬西房信瑞も弘長二年鎌倉に
J20_0523B29: 下り。北條時賴に謁し。自作宗祖傳を呈し。又その
J20_0523B30: 請に對し淨土宗要を錄して贈れりと云ひ(敕傳二十
J20_0523B31: 六卷)。又初成覺房の弟子なりしが。後には聖覺法印
J20_0523B32: の説を聞き。二祖の門に入りたる敬蓮社も。暫く鎌倉
J20_0523B33: に住したることありと云ふ(決答疑問鈔縁起)。其他親
J20_0523B34: 鸞が東國宣敎の歸途鎌倉に立寄り。西山の門弟宗觀

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