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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0521A01: の卷數は種種ありしが如し。然るに此書最初の稿本
J20_0521A02: は。傳通記散記三に。仰去康元二年丁巳三月二十一日
J20_0521A03: 於下總光明寺始書正嘉二年戊午三月二十九日於同
J20_0521A04: 國西福寺終功とあり。受決鈔も飯岡始之福岡終之
J20_0521A05: とすれども。其始の月は稍異なり。即ち從初春比
J20_0521A06: 始興起傳通記とあり。惟ふに受決鈔は講義開始を
J20_0521A07: 記し。傳通記は講錄整頓の初を記せしものならん。
J20_0521A08: 決疑鈔。傳通記の外。尚下總滯在中に若干の著述あ
J20_0521A09: りしが如し。即決疑鈔と同年十月。江禪門の請に應
J20_0521A10: じて三心私記を著し。傳通記講述中。上總周東郡在
J20_0521A11: 阿の請に應じて。授手印決答疑問鈔二卷を著はせ
J20_0521A12: り。尚受決鈔によるに。康元二年七月頃相模國石川
J20_0521A13: (大庭御厨内郷)禪門道辨の請に應じて彼地に赴き。
J20_0521A14: 十四五日間滯在せりと云ふ。
J20_0521A15: (三) 鎌倉
J20_0521A16: 源賴朝天下の政權を掌握し。幕府を鎌倉に開く
J20_0521A17: に及び。政治の中心が玆に移ると共に。佛敎諸宗も
J20_0521B18: 漸くその下に馳參し。勢力をここに扶植するに腐心
J20_0521B19: せり。天台。眞言等の諸宗は祈禱の事務を擔當し。
J20_0521B20: 鶴岡別當を始め重要の位置を占有し。臨濟榮西禪師
J20_0521B21: の如きも。京都に在りて南都北嶺の壓迫に困まんよ
J20_0521B22: りは。此等舊勢力の比較的薄弱なる鎌倉において。
J20_0521B23: 新宗を弘布するの容易にして且つ有利なるに著眼
J20_0521B24: し。夙に此地に入りて賴家。政子等の歸仰を得。壽福
J20_0521B25: 寺の成るや請せられて開山となり。爾後鎌倉に於け
J20_0521B26: る禪宗旺盛の礎地を造れり。宗祖門下にも此に著目
J20_0521B27: して。早く念佛の弘通を試みたる者少からず。又鎌
J20_0521B28: 倉武士の京都守衞の間を偸み。宗祖門下に出入し熱
J20_0521B29: 心なる念佛信者となりて。其信仰を歸國の後郷黨の
J20_0521B30: 間に皷吹したる者多數なりしを以て。宗祖自身は此
J20_0521B31: 地に遊化せられざりしも。其敎訓は開宗後數年を出
J20_0521B32: でずして。鎌倉を中心として關東諸國に流行を見る
J20_0521B33: に至れり。
J20_0521B34: 東鑑建久五年五月二日の項に。由比浦邊漁父今晩

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