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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0519A01: に。光明寺者在大須賀郷飯岡と云ひ。受決鈔に後
J20_0519A02: 依荒見彌四郞千葉一門也福岡荒見中間四十里請往彼其所有別所云
J20_0519A03: 飯岡とある。荒見は大須賀に隣接し。荒見小四郞
J20_0519A04: 胤村は大須賀四郞胤信の子なること千葉系圖の示す所
J20_0519A05: なれば。大須賀氏の支族荒見氏の領地飯岡は。印旛
J20_0519A06: 郡久住村飯岡なること疑ふべからざればなり。然るに
J20_0519A07: 匝瑳郡福岡と。印旛郡飯岡とは其距離受決鈔の記す
J20_0519A08: る如く。四十里は錯誤或は誇大なるも。二十里に近
J20_0519A09: かるべし。福岡飯岡住居の前後は。地理的關係より
J20_0519A10: 云へば。鏑木より福岡に。福岡より飯岡に移轉する
J20_0519A11: を最も便宜とすべく。受決鈔又上人初住福岡後依
J20_0519A12: 荒見彌四郞請往彼其所有別所云飯岡と云ひ。福
J20_0519A13: 岡より飯岡に移れる如く記するも。其次傳通記述作
J20_0519A14: の記事には。飯岡始之福岡終之と云ひ。傳通散記三
J20_0519A15: にも。抑去康元二年丁巳三月二十一日於下總光明
J20_0519A16: 寺始書。正嘉二年戊午三月二十九日於同國西福寺
J20_0519A17: 終功とありて。傳通記は飯岡に於て著手せられ。
J20_0519B18: 福岡に完成せられたること爭ふべからず。然らば鏑木
J20_0519B19: より福岡に移り。福岡より飯岡に移りしも。又福岡
J20_0519B20: に歸りたるものにして。此兩地の間は度度往返せし
J20_0519B21: ものの如し。
J20_0519B22: 飯岡に於ける三祖の檀那は。上に云へる如く大須
J20_0519B23: 賀氏の支族荒見彌四郞なり。而して大須賀四郞胤信
J20_0519B24: は千葉常胤の四男なり。福岡に於ける施主は。椎名
J20_0519B25: 八郞入道なりしとは。又受決鈔の傳ふる所にして。
J20_0519B26: 椎名氏は又千葉氏の支族なれば。下總に於ける三祖
J20_0519B27: の外護者は。鏑木。椎名。荒見共に千葉の一族にし
J20_0519B28: て。千葉氏との關係甚淺からざりしを見るべし。然
J20_0519B29: れども鏑木。椎名。荒見三氏は。いづれも微微たる
J20_0519B30: 一小地頭にして決して富裕の家にあらず。故に招請
J20_0519B31: の當初には。三祖に歸依し之を擁護して講肆を開張
J20_0519B32: せしめたるも。時日の重り且つ其門下聽講學生の增
J20_0519B33: 加するに及び。充分之が資糧を供給する能はざるの
J20_0519B34: みならず。却て三祖の些細なる財囊を誅求するの已

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