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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0518A01: 浦村下小堀淨福寺。同郡森山村下飯田西音寺。同郡
J20_0518A02: 古城村鏑木光明寺。匝瑳郡白濱村水戸光泉寺。同郡
J20_0518A03: 豐岡村金尾金照寺。海上郡豐浦村邊田淨國寺。山武
J20_0518A04: 郡蓮沼村蓮沼極樂寺なるが。此等が悉く實際三祖の
J20_0518A05: 開創或遺跡なるかは疑問に屬し。又此以外に明に三
J20_0518A06: 祖の居住せられし寺院の今日廢頽せるもの少から
J20_0518A07: ずと雖も。此によりて其敎化の範域を大體想像する
J20_0518A08: に難からず。即三祖下總の敎化は。香取。匝瑳。海
J20_0518A09: 上。山武の四郡が主要部にして。時に他郡に遊化し。
J20_0518A10: 或は上總其他の隣國にも飛錫せられたるべし。又下
J20_0518A11: 總四郡の中に於ても。今日正確に知られたる敎化の
J20_0518A12: 根據地は。香取郡鏑木光明寺。同郡(今印旛郡に屬
J20_0518A13: す)飯岡光明寺。及匝瑳郡福岡西福寺の三箇所なり。
J20_0518A14: 鏑木は決疑鈔述作に關聯し。飯岡福岡は傳通記著
J20_0518A15: 述に關係して其事實を傳へらる。決疑鈔述作は。其
J20_0518A16: 序に或賓客の請に因ることを記し。大澤見聞は賓客を
J20_0518A17: 鏑木九郞入道とす。鏑木九郞は千葉系圖に「常胤曾
J20_0518B18: 孫胤定鳴矢木九郞鏑木郷に居る」とあるもの是なり。
J20_0518B19: 胤定深く三祖に歸依して其領土に招請し。後三祖に
J20_0518B20: つき入道して法阿と號せし人。光明寺は鏑木山胤定
J20_0518B21: 院と號し。胤定三祖に歸依の餘り。此寺を建て三祖
J20_0518B22: を開山に請したりとは。同寺寺記に傳ふる所なり。
J20_0518B23: 鏑木に於ける三祖在住の年月は確ならずと雖も。決
J20_0518B24: 疑鈔述作が建長六年なりと云へば。寶治二年以後建
J20_0518B25: 長六年頃迄は此所を以て住處として。其附近の地を
J20_0518B26: 敎化せられしならんか。
J20_0518B27: 福岡は今匝瑳郡福岡町に屬し。略千葉銚子佐原を
J20_0518B28: 頂點とする三角形の中心點に位し。鏑木の西南二里
J20_0518B29: の所にあり。此地に於ける三祖の住處は西福寺なり
J20_0518B30: しと傳へらるるも。此寺今廢絶してなし。飯岡と云
J20_0518B31: ふ地名千葉縣に兩所あり。一は海上郡飯岡町。他は
J20_0518B32: 印旛郡(元香取郡)久住村の大字飯岡是なり。前者
J20_0518B33: は福岡に接近し。福岡と往來するには比較的便宜の
J20_0518B34: 地なれども。三祖の住處後者なることは。糅鈔四十八

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