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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0511A01: 大なる人物に非ざりしことは。其諍論の内容及結末に
J20_0511A02: 徴しても明なり。
J20_0511A03: 四 三祖の受法
J20_0511A04: 三祖。諱は良忠。然阿彌陀佛と號す。傳へ云ふ伏
J20_0511A05: 見天皇永仁元年(寂後七年)七月記主禪師の敕諡を賜
J20_0511A06: ふと(貞享板然阿傳)。因りて通途記主。或は單に禪
J20_0511A07: 師と呼ぶ。石見國三隅莊(那賀郡に在り明治十三年養
J20_0511A08: 鸕徹定其遺跡に良忠寺を建つ)の人なり。父は京極師
J20_0511A09: 實六世の孫。入道して比叡山東塔南谷大林房宣雲の
J20_0511A10: 弟子と成り。圓尊(糅鈔一には圓實房)と稱せしが。
J20_0511A11: 後石見國に移住して。正治元年七月廿七日三祖を生
J20_0511A12: む。
J20_0511A13: 建曆元年二月十三歳にして。出雲鰐淵寺(簸川郡鰐
J20_0511A14: 淵村に在り)に入り。月珠房信暹に就き讀書を習ひ。
J20_0511A15: 建保二年十六歳にして。出家得度し。同年十一月。
J20_0511A16: 登壇受戒せり(傳)と云ふも。受戒の地明ならず。糅
J20_0511A17: 鈔一には幼にして寺門北山龍淵房に住し。二八にし
J20_0511B18: て登壇受戒すと云へば。園城寺戒壇に於てせるもの
J20_0511B19: の如し。然れども幼時より園城寺に留學せしことは本
J20_0511B20: 傳に違するのみならず。北山龍淵房居住のことは。次
J20_0511B21: の圓信學系の記事を誤りたるものの如くなるが故
J20_0511B22: に。幼時は鰐淵寺に住せしが。受戒の爲に寺門に赴
J20_0511B23: きしなるべし。出家受戒の後。圓信信暹二師に就
J20_0511B24: き。天台倶舍を學ぶ。圓信の學統は。山門には寶地
J20_0511B25: 房。竹林房の兩流を兼ね。寺門には北山龍淵房の流を
J20_0511B26: 汲めるものにして。可なり博大なる學殖を有せし人
J20_0511B27: の如し。前述の如く。糅鈔は此事實を誤解して。龍
J20_0511B28: 淵房居住とせしも。龍淵房は三祖幼時の居所に非し
J20_0511B29: て。圓信の學系を語るものなり。但圓信の居所は不
J20_0511B30: 明なるも。月珠房信暹と同じく。鰐淵寺に住したる
J20_0511B31: に非るか。
J20_0511B32: 密敎の學は。密藏。源朝二師に受學せられたり。
J20_0511B33: 而して密藏諱は尊觀。鰐淵寺の住侶たりしと云へ
J20_0511B34: ば。其授けたる密敎は台密なるべく。源朝は高野

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