浄土宗全書を検索する
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巻_頁段行 | 本文 |
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J20_0508A01: | 住處にして且敎化の根據地なりしことは。或傳説に |
J20_0508A02: | 二祖の舊主香月則宗が。建保五年(歸郷十三年後) |
J20_0508A03: | 同莊に吉祥寺を建立し。二祖棲居の地となせし(大 |
J20_0508A04: | 日本地名辭書)と云ふに徴して知るべし。又博多善 |
J20_0508A05: | 導寺。席田郡靑木村正定寺。光明寺(所在不明古跡 |
J20_0508A06: | 復興なりと云ふ)。嘉穗郡莊司村本誓寺。鞍手郡宮 |
J20_0508A07: | 田村極樂寺等を創剏したりとの傳説によれば。少く |
J20_0508A08: | とも建保五年頃までは。郷里にありて。一族郷黨並 |
J20_0508A09: | に其附近の人人の化導に力めたるが如し。 |
J20_0508A10: | 筑後の敎化が。何年頃始まりしかは不明に屬すれ |
J20_0508A11: | ども。吉祥寺建立の傳説より考ふるに。建保五年上人 |
J20_0508A12: | 五十六歳以後なるが如し。此國敎化の根據中心は言 |
J20_0508A13: | ふまでもなく三井郡山本郷に於ける善導寺なり。善 |
J20_0508A14: | 導寺は時の筑後國押領使たりし。草野太夫永平の敷 |
J20_0508A15: | 地を寄進して創建する所にして。始は光明寺と稱せ |
J20_0508A16: | しも。寺中唐土より渡來せしと傳へらるる。善導大 |
J20_0508A17: | 師像を奉安するによりて。通俗之を善導寺と稱せし |
J20_0508B18: | が。後には之が本號となり。光明は院號として保存 |
J20_0508B19: | せらるるに至れり。永平夫妻共に二祖に歸向すること |
J20_0508B20: | 厚く。後には二祖の弟子と成り。永平は要阿。妻は |
J20_0508B21: | 作阿と稱し。專修念佛の行者と成れりと云ふ。 |
J20_0508B22: | 草野氏の歸依と外護は。物質的に伽藍の盛觀によ |
J20_0508B23: | り。又生活資料の豐富により。四方より多くの學徒 |
J20_0508B24: | を誘致し。遠近の民衆を葵仰せしめしのみならず。 |
J20_0508B25: | 精神的にも之が模範を示し。下民をして之に倣ひ |
J20_0508B26: | て。二祖の德業に歸依せしむるに。與りて力ありし |
J20_0508B27: | こと明なり。 |
J20_0508B28: | 二祖は、善導寺を根據として。四方に敎化の羽翼 |
J20_0508B29: | を張り。筑後は勿論肥後にまで飛錫せり。筑後國に |
J20_0508B30: | 厨氏あり。高良山の麓に一寺を建て。丈六尊像を安 |
J20_0508B31: | 置し。之に二祖を請す。此寺施主の姓によりて俗に |
J20_0508B32: | 厨寺と稱せしが。後世厨山聖光院安養寺と號す。二祖 |
J20_0508B33: | 此寺に在りて。千日を期し如法別時念佛を修行せし |
J20_0508B34: | が。中途に至り高良山寺(當時眞言宗醍醐所轄)の |